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トランプ2.0で顕著になった〈政策科学〉から〈政治学〉への回帰

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August 25, 2025 18:02 jst
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最近の2期目の「トランプ2.0」のアメリカを見ていると、いつの間にか、政治を語る際の参照先がすっかり「政策科学」から「政治学」に移ってしまったように思えることが増えてきた。

どういうことかというと、説明のために用いる要素、つまり説明変数が、完全に「合理性から情念へ」移ってしまった、という印象であり、語りの際に用いられる思考法の出自が「経済学から文学へ」移ったというものだ。

まぁ、簡単に言うと、難しい専門用語を駆使した説明から、床屋談義のようなものに変わったということでもあるのだが。

それをもって、政策科学から政治学に回帰したように思える。

そのような印象を受けるのは、トランプのみならず、トランプ2.0のホワイトハウススタッフや閣僚、その配下の高官たちを含めて、彼らの言動が、基本的に「民主党憎し」の報復から発していて、およそ理性的な判断がなされているようには見えないからなのだが。

いや、狡猾な所も随所に見られるから、理性的なところもあるといえばあるのだけれど。

それでも、数式で説明される経済学的な政策科学ではなく、報復というかシャーデンフロイデというか、負の感情の発露に躊躇しない人間の様子を肯定する文学的な政治学のように感じることが多い。

なぜこの「政策科学vs政治学」にこだわるのかというと、それは20年前にコロンビア大学に留学した際に、真っ先に覚えた米日の違いだったからだ。

留学先では、政治学や統治のことも学ぶことになるから、せめて土地勘くらいは日本語でつけておこうと思って、渡米前に政治学の本や政治時評を多少は読んで老いたのだが、そのほとんどが意味がなかった。

というのも、アメリカの大学院における政治学というと、それは「政策科学」のことをいい、その中身は経済学のモデルにヒントを得た科学的で計量的な分析に耐えるようなものだったから。

日本でよく見かけた、たとえば、当時流行っていたネグリ=ハートの『帝国』とか政治学部の教授に聞いても、そんなもの意味ない、という感じの反応しか得られなかった。かわりに授業では、ゲーム理論を利用した政府の組織論とか選挙行動とかの分析方法が紹介されていた。つまり、情念の政治言説よりも理性の政策実行のほうが重視されていた。

時々コロンビアでスラヴォイ・ジジェクの講演会などもあったけれど、その主催は、ジジェクがよく言ってた通り、比較文学学科だった。ラカンやフーコーの著作を課題図書にしていたのはすべて文学部であって、政治学部では全く扱われていなかった。

ただ、今思うと、政策科学の客観性を重視する方法論は、まさに多様性を認め、寛容を良しとするリベラリズムの思考様式を前提にしたものだった。つまり、民主党の方法論だった。

対して、文学的な情念を引き合いにして政治を語るのはもっぱら共和党支持者、つまりリパブリカンの側だった。それがトランプの登場後、より鮮明に表に出てくるようになった。

その結果、今更ながらジジェクのいうような、イデオロギー分析的で精神分析的な文芸批評の流儀のほうが、現在のトランプ2.0のリアリティショー化された宮廷劇をうまく説明できるように思えることが増えてきた。

実際、トランプ支持者のニューライトには、ジジェクだけでなくフーコーやドゥルーズ、バルトなどを引用しながら時評をしたりする高学歴MAGAも多いので、すっかり現在進行形の政治の理解そのものが文学的になってきているのだけれど。

さすがはトランプ劇場だけのことはある。

ホワイトハウスの様子をそのままリアリティショーにするだけでなく、それをネタにして視聴者=有権者たちに好き勝手に遊んでもらうように仕向ける。だから形式としてはARG(Alternate Reality Game)というか、LARP(Live Action Role-Playing game)に巻き込んでいるようなものだ。

その結果、トランプが用意するこのゲームに自ら参加している人たちは、今のホワイトハウスの行っていることが毎日娯楽のように感じられてしまい、不快な思いをすることはない。

その一方、このゲームに参加していない、民主党支持者やインディペンデントの人たちからすると、一連の動きが理解不能なものにしか見えないだろう。実際、大した理由や説明もなされずに、プロジェクト2025的な施策がいきなり展開されるだけのことだから。

そういう意味でも、時評を文芸批評のようにこなす「政治学」的な言説のほうがしっくりくる。

問題があるとすれば、現職の民主党政治家のほとんどが、政治学ではなく政策科学のエキスパートであるため、文芸批評的な語り口で反論、というか皮肉の一つも返せる人たちがいないことで、そのため、トランプ2.0の動きを指を咥えて見ているだけになってしまう。

政策科学的な統治の方法、というのは、特定の個人によらない「法則=ルール」を駆使することで実行されるため、それなりの専門教育が必要だし、そもそも専門性を認める点で一定上の学習能力を必要とする。つまりこの論点はそのまま、いわゆるトランプ以後の共和党支持者と民主党支持者を分ける「高等教育=学歴の有無」という区分に直結する。そして、単純な数の問題として、高等教育を修めた人たちのほうが社会的には少数であるという事実がある。

民主党支持者がおしなべて教育程度の高い、それゆえ理性的で客観的な語り口で話すのに対して、共和党支持者は教育の有無に限らずフランクな語りで話す。わかりやすくいえば、べらんめぇ調の話し方で、だから、相手に対する罵倒や非難も自然と出てくる。まさにトランプのような喋り方だ。

だが、そういう話し方をする民主党の政治家は少ない。少なくとも報道番組に出てくるような高い地位にある民主党政治家にはほぼ皆無だ。それが、どうにも決定的に、今の民主党の言動を空転させている。

政策科学vs政治学。文字通りの「政治文化」の違いが、今アメリカ政治の超えがたい対立を生み出している。