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どうやらノーベル賞は、多極化する21世紀の国際情勢のなかで、ヨーロッパ的価値の権威のひとつとしての地位を維持すべく、カンヌに習い、自己変革しようともがいているようだ。
そう感じたのは、今年の物理学賞と化学賞でともにAI関連の受賞が相次いだから。
2024年10月8日、今年のノーベル物理学賞が、プリンストン大学のジョン・ホップフィールド教授と、AIの「ゴッドファーザー」として知られるジェフリー・ヒントン氏に決まった。
受賞理由は、「人工知能として今日私たちが経験することの基礎を築くための基礎を築いた」研究ということだけど、噛み砕いて言えば要するに、
ジェネラティブAIの基礎となる、
ディープラーニング(あるいはマシンラーニング)の基礎となる、
ニューラルネットワークの基礎となる、
バックプロパゲーションという理論の考案
で受賞したということ。
つまり、いま流行りのジェネラティブAIの基礎となる「バックプロパゲーション」を考案したことでの受賞、ということ。
正確には、ヒントンの場合、ボルツマンマシンの考案であって、バックプロパゲーションとは違う、ということのようだけど。
逆に、ボルツマンマシンだと、統計力学からの流れで、なんとなく物理学賞っぽくみえる、というのもあるのかもしれない。
それにしても、おお、バックプロパゲーションかぁ、また随分懐かしいタームがでてきたなぁ、と思ったのはホントのこと。
80年代のAIブームのときに、当時、ノンリニアな並行演算を行う計算機理論の基礎として注目されていたニューラルネットワーク理論の基礎にあったのが、バックプロパゲーションだったから。その頃、東大計数学科の甘利俊一教授が書いた「神経回路網の理論」についての本、そういえば読んでたなぁ、と思い出したくらい。
実際、この物理学賞の発表後、甘利教授の名前を見かけることが増えたのだけど、そりゃ、今50代から60代くらいの日本の研究者や理系上がりの経営者だったら思い出すよな、と自然に感じるくらい、当時は有名な話だった。
AlphaGoの登場とともに、マシン・ラーニングに注目が集まった際、あぁ、なるほど、ニューラルネットワークの理論が、CPUの発展、というよりもGPUの普及で、実装可能になったのか、と感じてもいたので、その基礎理論が社会的に評価される事自体、もちろん、納得。
でも、さすがに「物理学賞」ってどうなの? これ計算理論で、理論といっても、発見したものではなく、構築するための出発点となるモデルのことだよね、と思ったのも確か。
こちらも、案の定、このツッコミも多かった。
そりゃ、そうだ、情報科学の分野は、ノーベル賞に情報科学部門がないから、というのも含めて、チューリング賞があったわけだから。
ところが、どうやら、ノーベル賞委員会は、何が何でもAIを自陣に取り込みたいらしい。
それは物理学賞の翌日の10月9日に発表されたノーベル化学賞が、Google DeepMindに在籍するコンピュータ科学者のデミス・ハサビスとジョン・ジャンパー、それにワシントン大学の生化学者デビッド・ベイカー教授に授与されると発表されたから。
まさにAlphaGoでマシン・ラーニングの真価を世界中に広め、今日のAIブームの火付け役になったDeepMindの開発者が選ばれた。DeepMindが開発したAlphaFold 2によって「タンパク質の分子構成要素であるアミノ酸からタンパク質の複雑な構造を予測する」という長年にわたる問題を解決したから、というのが理由で、共同受賞者であるベイカー教授は新たなタンパク質の合成に成功したから、ということ。
こう見ると化学賞のほうは、科学的成果を得るために不可欠なツールであるAIソフトウェアを開発したから、ということのようだ。確かに科学の発展の多くは、新たな計測ツールの開発によってもたらされることは多く、識者によっては、新たな計測装置を作り出した技術者こそ称賛されて然るべき、という人もいる。それにならえば、ツールとしてのAIの開発者の受賞も納得できる範囲内にあるといえそうだ。
それでも、え、AI? え、DeepMind? というのが最初の反応だったわけだけど。
ただ、この化学賞のDeepMind受賞まで知ると、自然科学分野で最初に10月2日に発表されたノーベル生理学・医学賞が、新型コロナウイルスの「mRNAワクチン」の開発者に授与されたというのも納得。
つまり、ノーベル賞の自然科学分野としては、生物学やバイオテクノロジーの領域で新たな飛躍があると見込んでいて、その成果に即して、物理学賞や化学賞の評価軸も変えようとしたのではないか。
そうして、ノーベル賞としてはちょっと手の出しにくかったAIなどの情報科学分野にも「権威」の影を伸ばそうとした。手遅れになる前に。
それは裏返すと、今日におけるノーベル賞のブラインドスポットが鮮明になったということでもある。
もっとも、元をたどれば、ノーベル賞とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて生じた産業革命が新たにもたらした社会に合わせて分節化された社会的機能要素への賞であったわけで、それゆえ、どうやらそのままでは21世紀にはフィットしないことが明らかになってきた。
科学的な知の積み上げ方の基盤が、物理から情報に移ったから。
科学の世界が、物理学帝国から、情報科学帝国に変わってきたから。
だから、無理矢理にでもAIの成果を解釈して、物理賞や化学賞の枠に押し込んだところに、ノーベル賞委員会が、あるいはヨーロッパの学術的権威が、AIを自分たちの権威が評価する対象の範囲内に納めておきたいと強く願っている様子が見え隠れする。
裏返すと、多少強引でも、AIの成果について、自分たちも「もの申せる」立場を確保しておかないことには、この先、ノーベル賞の世界的権威性を失ってしまう可能性が高いと、そう確信して焦っているわけだ。
それは例えるなら、ちょうどカンヌ映画祭が、このままではハリウッドに押されてヨーロッパ映画の存在感が低下していくのに合わせて、ヨーロッパの映画祭の威信も失いそうだと焦り続けてきたところで、インターネットの登場以後、映画だけでなく広告やインタラクティブ映像などの、デジタル系のビデオを評価対象に加え、いつしか、インターネット広告の芸術性の評価者としての地位を築き、ダボス会議時代のおヨーロッパの権威として再浮上したことに近い。
ヨーロッパ全体で見れば、スウェーデンのように王族や貴族がいる国は少なくなく、そのような「生まれながらの支配階級」にとっては、世俗の世界で「権威」を維持し続けることは、重要である。
人びとの尊敬の眼差しを失えば、いつ体制が転覆されてもおかしくはない。少なくとも、王政と共和政が混在するヨーロッパでは自然な考え方だ。
実際、最近のノーベル賞が、国際的な政治情勢の中で、政治化されてきていることもよく言われていることだ。アメリカ大統領に就任後1年も経たずに、2009年12月にバラク・オバマ大統領にノーベル平和賞が贈られたころから目立ってきた潮流だ。
言い換えれば、グローバルな政治の文化戦争化に、ヨーロッパの権威も巻き込まれている。
そうした評価傾向は、10月14日に発表されたノーベル経済学賞にも見られる。今年は、MITのダロン・アセモグル教授とサイモン・ジョンソン教授、それに、シカゴ大学のジェームズ・ロビンソン教授の3人が選ばれた。
といっても、この3人は、邦訳もある『国家はなぜ衰退するのか』や『技術革新と不平等の1000年史』、あるいは『自由の命運』の著書たちで、まさにこの前のエントリーで触れた「institution」――といっても経済的なinstitutionだけどー―から経済社会の変遷を分析・評価する「新制度派経済学」たち。
植民地化の際に移植された制度に関して、その後の振る舞い(特に経済的パフォーマンス)を研究することで、搾取的な経済体制は全体のパフォーマンスを下げる、彼らの言葉を使えば「国家の繁栄を損ねる」ことになるという学説に至った。
それを新制度派経済学の基礎にあるゲーム理論的な検討を通じて、複数の国の間で起こった歴史的な出来事を、モデル化を通じてシミュレーションの結果のように解釈し、「制度=institution」のインパクトを評価している。
その一方で、「植民地化」や「搾取」、「不平等」などのタームも彼らの議論に使われるように、彼らの立場が、グローバルなリベラリズム、さらにいえば、リベラル・デモクラシーを評価するものであることもわかる。
そして、リベラル・デモクラシーとは、ヨーロッパ世界が近代を迎える中で、紆余曲折を経てたどり着いた、常に次善の社会体制だ。
そうした価値観の下でノーベル賞も検討されているということなのだろう。
さらに、今、「シミュレーション」という言葉を出したように、ゲーム理論の成果を活用する新制度派経済学には、コンピュータシミュレーションは不可欠であり、そこでも情報科学の成果、すなわちAIの取り込みは必須となる。
ゲーム理論もコンピュータ理論も、フォン・ノイマンの頭から誕生したことを思えば自然なつながりではあるけれど、近い将来、ノーベル経済学賞も、AIを活用したものが受賞することになるのかもしれない。いや、全てのノーベル賞が、情報科学の成果の上に成り立ったものになる時代となるやもしれない。
そのような未来が来てはじめて、ダイナマイトの開発で知られるアルフレッド・ノーベルの遺言で始まったノーベル賞も、21世紀の世界に向けた変貌を成し遂げたことになるということか。
ちょうどカンヌ映画祭が、映画の祭典からデジタル・ビデオの祭典に転じたように。
そうした具体的な表彰式典を通じて、ヨーロッパの文化的・学術的な権威は、その権威性を維持していく。
今回の、2024年のノーベル賞におけるAIブームには、ヨーロッパが、ハリウッドに続いて、シリコンバレーに対しても、評価者・批評者としての地位を築こうとする、そんな意志が垣間見れた気がする。