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私家版アメリカニズム 1 : institutionについて

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October 10, 2024 10:50 jst
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2024年10月3日、カマラ・ハリスは、リズ・チェイニーとともに、共和党の発祥の地であるウィスコンシン州リポンでラリーを行った。テーマは「Country over party」、すなわち「党よりも国を優先すべき」。

とはいえ、ここで扱いたいのは、このラリーの意義ではなく、ここで行ったリズ・チェイニーのスピーチについて。もっといえば、彼女がスピーチの中で強調していたinstitutionという言葉について。

リズ・チェイニーのスピーチで興味深かったのは、constitution(憲法)だけでなく、institutionもまた、人が関わり続けないと維持できないものであると強調していたことだ。実は、これについては、やっぱりそうか!という思いを強くした。

というのも、彼女の言うinstitutionとは、イメージとしては、法や法以外の規範を人びとがもちよって作り上げた成果物で、いわば、各人が糸をもちよって共同で編み上げたタペストリーのようなものだ。そのようなニュアンスでinstitutionの重要性を語っていたことだった。だから、自分たちが関わることが大事なのだ、と。

裏返すと、人が関わるのをやめたらinstitutionは、ある日、気がつけば跡形もなく消えてしまっているかもしれない。その意味で、institutionとは社会的構成物、というか構成体である。

Institutionは日本語では「制度」と訳されることが圧倒的に多いのだが、常々この訳語は違う、というか、全く逆のことを言っていると感じてきた。アメリカで使われる文脈を踏まえると、多分「人びとのやり取りの中で慣習的に練り上げられてきた規範のようなものだが、時代に応じて変化することを厭わない決まり事、更にはその決まり事にしたがって出来上がった具体的な仕組み」といってよい。つまり、ボトムアップに出来上がった約束事。それが、日本語の「制度」だと誰か偉い人が決めたもの、つまりトップダウンのものに思えてしまう。

たとえば、『有閑階級の理論』で有名なソースティン・ヴェブレンは「制度派経済学」の先駆者とか言われることが多く、実際、この本の副題が「制度の進化に関する経済学的研究」だったりするのだが、どう考えても、ヴェブレンが扱っているのは「制度」じゃないよね、と感じることが多くて困った。だって書かれているのは、人びとの行動様式の変容についてだから。
(ちなみにヴェブレン本の原題は“The Theory of the Leisure Class: An Economic Study in the Evolution of Institutions”)

多分、ここでいう「制度」とは、創発的にできた約束事、それが暫定的に固定されているという点で「均衡」のようなもの。状況が変わればその「均衡」も動く。制度派経済学と呼ばれるものの中身が、主にはゲーム理論による均衡の生成と変動を扱っていることから、そう思うことが多かった。

もうひとつ、アメリカにおいてinstitutionが重視され、実際に重要なのは、多くの社会の約束事が、政府によって頭ごなしに「お達し」として通達されるのではなく、民間の組織の間の取り決め=契約をもとにして生み出されることが多いからだ。その時の民民の取り決めのツールとなるのが、アメリカ(さらには英米圏)で使われる「法」である。

政府が定めた法も、民民の商慣習の契約の総体も、あるいは社会的な慣習もはたまた、ある巨大組織の内部における慣行も、全部まるっとひっくるめてinstitutionである。一なる中央政府が国家全域を包摂しているわけではない、その意味では、外壁が閉じていないオープンな法域――いや、言葉の上では思い切り矛盾しているけれど――であるアメリカならではの「ゆるく様々な姿のとりきめ」の総称と言ったほうが良いのだろう。

constitutionが「一緒に(con)立ち上げたもの(stitution)」であるの対して、institutionは「内部で(in)でやり取りする過程で立ち上げたもの(stitution)」である、といえばよいか。

リズ・チェイニーが、政治家の多くがそうであるように法律家であることもこうした考え方を支持しているように思える。

ということで、institutionの訳語に「制度」は違うよね、という話。

なら、代わりにどんな言葉がいいのか、と言われると困るのだが。

それでも、ボトムアップのニュアンスが強いことだけは頭に入れておくべきことだと思う。

それがアメリカという社会の最も基本的な特徴のひとつだから。