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サイトをリニューアルして、ブログのパートを「American Prizm XYZ」として切り出してみた。最初にそのことについて触れておきたい。
といってもほとんどタイトル通りなのだけれど。
“American Prizm”というのは、要するに、アメリカの流儀であれこれ見てみましょう、ということ。人によっては単に「アメリカかぶれ」に見えるかもしれないけれど、一応、書き手の意図はそうではなくて、アメリカのことをできるだけアメリカに内在して、ということはアメリカ人の感じ方や考え方に即して見ていこう、ということ。
もっとも、その前段階としての「アメリカ人の感じ方や考え方」について、具体的に出来事やコンテントなどを通じてああだこうだ書いたり論じたりすることが中心になると思っている。むしろ、そうして「書く」ことが「考える」ことに発展していけたらいいな、くらいに感じている。
で、タイトルの後半の「XYZ」は、一応、3つの世代を意味している。すなわち、GenX(X世代)、GenY(Y世代)、GenZ(Z世代)のXYZ。このうち、Y世代って何? って思うかもしれないが、これは要するに「ミレニアル世代」のこと。もともとGenXのあとだからGenYでいいよね、と調査機関あたりでは使っていたのだが、圧倒的なメディア露出の多さで「ミレニアル」のほうが人口に膾炙することになった。
だから最初は「XYZ」ではなく「XMZ」も考えたのだが、かえってわかりにくくなるかな? と思って「XYZ」に落ち着いた次第。言うまでもなく、この3つの世代によって、アメリカ社会の意味や見え方も微妙に違っている。そうした微細な差異も加味していきたいと思った。
裏返すと、アメリカといっても、決して一枚岩であるわけではなく、世代によって大きくそのイメージは変わる。まぁ、だからあれだけの社会変動を生み出し続けることができるわけだけれど。世代の差は、広大な北米大陸における地域差(+歴史差)とともに、アメリカ社会の躍動感の源泉だ。
ちなみに、X世代もZ世代も、先行した(ベビー)ブーマーやミレニアルが、数の多さからやたらとアグレッシブなくせに呑気であり、社会のそこかしこでそれまであった社会的な慣習――アメリカだとinstitution=制度ということが多いのだが――の破壊と新生を繰り返してきた後に登場したため、しばしばその後始末をさせられた経験が抜けない。端的に、なにかとブーマーやミレニアルに対して思うところが多いのだがX世代やZ世代である。
そう紹介するのは、今これを書いている本人もX世代だから。したがって、気分的にはZ世代に同情する感じだし、ミレニアル(そしてその親世代のブーマー)には厳し目の視線を投げかけそうな気はしている。
ともあれ、そうした世代間の不平不満、鬱陶しさも含めて、世の中は変わっていくものだ、くらいに受け取って貰えれば幸い。
(ちなみに個人的には、そうしたミレニアルの鬱陶しさへの反動が、アメリカの場合、2016年以後のトランプ時代をもたらしたように感じているけれど、そうしたことはおいおい時々の事件に即して書けていければ、と思っている。)
ところで、今回のブログのリニューアルで一種の遊びゴコロとして使ってみたのだが、ジェネラティブAIの登場は、情報社会の基盤や様式、プレイヤーを抜本的に変えるポテンシャルをもっている。その点では、2000年代初頭に、ITバブルの後に登場した、ウェブ2.0以来の変化を社会にもたらす可能性は高い。ビットコインのようなブロックチェーン技術の応用に「Web3」という言葉が先取りされていなかったなら、多分、「ウェブ3.0」を名乗ったのはAI、それもジェネラティブAIになっていたかもしれない。
ブログのリスタートを考えたのは、テクノロジーの領域で久方ぶりに登場したAIという新しい可能性のおかげで、そろそろ少しは前向きなことも書けそうな時代になったと感じたからでもあった。
ということで、このブログでさしあたって取り上げていくテーマについて。
もっともリスタートといっても、書く人間は同じだから、何かが大幅に変わるわけでもなく。
以前から変わらず、追い続けている基本的なテーマ、というか「問い」は
「情報技術社会(Information Technology Society)をアメリカはどう先導するのか?」
というもの。具体的にはもう少しパラフレーズが必要で、
情報(Information)の意味(@アメリカ)
技術(Technology)の意味(@アメリカ)
社会(Society)の意味(@アメリカ)
についての検討を常に意識したものになるはず。なぜなら、それぞれについて「アメリカ特有の意味や文脈」があるから。
2010年代以降、インターネット経由でアメリカの情報がリアルタイムに流れてくるようになったので、それ以前のように「全く知らない」ということはだいぶ減ったように思うけれど、代わりに、アメリカでも日本でも同じ言葉が、それこそ「摩擦なく」使えると思える人が増えているようにも思えていて、そこは、時折、たちが悪いと感じてしまう。そうした誤解のもとを減らすことに、このブログが役立つことができたらいいなと思っている。
それから、これは今までも何度か書いたり話したりしたこともあることだけれど、日本では「欧米」という言葉があるせいか、ヨーロッパとアメリカは似たような存在で、だから、ヨーロッパ社会についての知識をそのままアメリカ社会に当てはめても問題ないと、無意識のうちに思っている人たちも相変わらず少なくない。なかには、欧州における、たとえばイギリスやフランス、ドイツあたりで見られるアメリカ理解のフレームをそのまま繰り返す人たちもいて、実は結構根深いことだと感じている。
個人的な印象では、日本におけるアメリカの理解の7割から8割近くは、こうした「ヨーロッパから見たアメリカ」になっていて、それでは、理解が進むどころか、むしろ誤解が重ねられていくだけではないかと気になっている。
もちろん、「ヨーロッパから見たアメリカ」がアメリカ像として日本で流通している背景には、日本が翻訳大国で、欧州を中心に多くの文献を翻訳して蓄積してきたことの成果なので、一概に批判すべきものではなく、むしろ、多文化視点的には「公平さ」をキープしているとも言える。
けれども学術的にろ過された視点が、その土地の日常の躍動感まで補足できているか、というとそれはかなり怪しい。少なくとも自分がかつてニューヨークに留学したときには、とにかく、そうした日本での前知識の多くが彼の地の現実とことごとく異なっていて、大いに苦労したことがあった。正直、日本のメディアを恨めしく思ったこともあった。こんなに適当なことを紹介しやがって、と。
帰国後、ブログを立ち上げようと思ったのもそのせいで、そうした日本での紹介に対する齟齬感は、今でも基本的には変わっていない。裏返すと、一定の範囲に収まる「アメリカ観」が、日本社会総体として再生産される仕組みが稼働し続けているのだろう。
もっとも、そうは書いたものの、それこそインターネット以後、こうしたアメリカ観の修正や是正が必要だと感じてあれこれ紹介している研究者や書き手が若い世代を中心に現れ始めていることにも気づいている。むしろトランプ時代に入った2010年代後半以後、改めてアメリカとはなにか、ちゃんと理解しなくちゃいけない、という気運が生じたのか、アメリカの思想や文芸思潮の紹介も増えた。
そうした試みの中で、個人的に学ばせてもらっているのが、社会学者の大澤真幸さんが『群像』に連載している「世界史の哲学」。とりわけ現代篇に入ってから、アメリカを、ヨーロッパとは異なる文明として真正面から取り上げていて、参考になることは多い。ユニタリアズムからトランセンデンタリズムを経てプラグマティズムに至る精神の展開の記述など、なるほど!と膝を打ったことは数しれず。ウェーバーの『プロ倫』で示された、プロテスタンティズムとキャピタリズムの連なりを更に拡大して、むしろ、キャピタリズムは(単なる経済体制のイデオロギーとしての資本主義ではなく)「神の死」のあとのアメリカの(公共)宗教である、という見立ては、トランプも教えを仰いだポジティブシンキングの系譜を振り返ると合点がいった。こうした日本における新しい試みにも適宜触れていければと思う。
とはいえ、普段は、多分、アメリカで起こった事件や、ドラマなどのコンテント、など、日常のゆるいものにコメントしていくことがほとんどになるとは思う。
直近では、アメリカ大統領選が最大のイベントになるのだが。メディアと政治、アートとテクノロジー、運動と説得、合理と情動、等々が交差する、この全米を巻き込む巨大イベントは「情報技術社会を先導するアメリカ」の格好のお披露目の場でもある。特に今年の場合、20世紀後半のアメリカが墨守してきたリベラル・デモクラシー(リベラリズムとデモクラシー)そのものが賭け金になっているため、結果の余波はアメリカ以外の地域にも広がっていくはずである。
こうした時宜にかなったテーマも追いながら、その過程でおいおい、いくつか「アメリカンプリズム」をなす、幹となる視座ができていったらいいなと感じている。
以上、リスタートのご挨拶まで。