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Google Book Settlementが世界にもたらす波紋

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昨日のエントリーで紹介したように、Google Book Settlementの修正案が公表された。この話題が興味深いのは、民間の裁判和解案が、アメリカ連邦政府のみならず、世界中から関心を集めてしまったこと。

そのあたりは、次のFTの記事が簡潔に扱っている。

Authors win Google book concession
【Financiall Times: November 14, 2009】

世界中のAuthorがconcession(譲歩)を引き出した、と伝えている。

しかし、本当にそうなのだろうか。

たとえば、次のNew Zealandの記事では、New Zealandの出版物が対象外になってしまったことをむしろ嘆いている。

NZ authors, publishers cut out of Google deal
【TVNZ: November 15, 2009】

あるいは、ドイツでも、ドイツの出版物が対象外になってしまったために、独自にe-book化のプロジェクトを進めなければならなくなったことを危惧している。

German publishers criticize new Google Books deal
【Monsters and Critics.com: November 16, 2009】

*

今回、和解案の対象国として、イギリス、カナダ、オーストラリアが含まれているが、その理由は、これらの国が英語圏の国であり、アメリカ国内にある図書館に相応の貢献を既にしていることから、ということ。簡単にいうと、アメリカの図書館の蔵書に既に、イギリス、カナダ、オーストラリア、の本は十分加えられているから、ということ。

これは、Google Book Searchの初発の動機が、図書館蔵書のデジタル化からスタートしたことを考えればとても納得のいく「公式」の理由だ。

だが、裏返すと、実際にデジタル化してみたら、非英語圏の蔵書については、大した数はなくて(たとえば、日本語文献については、実際に経験したコロンビア大学の図書館の蔵書イメージからすれば、全蔵書数から見たとき、おそらく大した数ではないのだと思う)、Google Book Searchが想定する「デジタル・ライブラリー」への貢献度が少ない国の要望にまで応えようとして、そもそものプロジェクトの速度が落ちたり、あるいは、その結果、プロジェクトが頓挫する方がよほどマイナスになる。多分、こういう判断が、和解案の修正を担当した人たちからすればあったのだと思う。

(本の「国籍(?)」をどう設定するのか、あまりよくわかっていないのだが、原作者=著者や、その最初の出版を手がけた出版社の属する国籍による、という理解で多分間違っていないと思う。とはいえ、たとえば、Penguin booksのように、多国籍に展開する出版社は多いし、多少アカデミックな出版社だと、NYとロンドンの両方にオフィスがあったように思う)。

だから、このアメリカ以外の三カ国については、Googleが本のデジタル化を始める以前から、既に、書籍の流通については、相当程度の相互乗り入れを行っていた、ということが、再確認されたに過ぎない、ということだと思う。

とはいえ、気になってしまうのは、和解案で想定されているBook Registryのボードメンバーに、この三カ国(の出版社業界)の代表者が加わる、ということ。

つまり、和解案の当事者であるGoogleらが属するアメリカはもとより、イギリス、カナダ、オーストラリア、については、Googleらが和解案として主導するe-bookプロジェクトの意思決定に開始時から関わることができるわけだ。

英語圏というのを狭く取って、たとえば旧英領であった「イギリス連邦(Commonwealth)」ととらえたとしても、上記の三カ国以外にも多数の国や地域が加わっている。いわば、そうした国は、英語圏の文化事業への貢献度がたいしたことがない、と今回言われたようなもの。そのため、創立時のボードには加われない、ということになる。

上のNew Zealandの記事は、このあたりの、いわば、英語圏の中で文化的に格下扱いをされてしまったかもしれない、ということを気にしてのことなのだと思う。

もちろん、今後、自分たちの意志で、このGoogleのプロジェクトに加わる国は出てくるだろうし、その際、Registryの運営ボードに関する規約を変更して、プロジェクト新参加国の代表が新たにボードメンバーに加わるかもしれない。

それは、今後の状勢次第だろうが、とにかく、なにはさておき、現時点では4ヶ国の出版業界の代表(それらは大なり小なり所属国政府のお墨付きをもらう必要がある)が、Googleプロジェクトの帰趨について影響力をもつことになる。

このように、今回のSettlementは、図らずも

英語圏文化の、階層性、中心-周縁性、の配置

をもあぶり出す結果になってしまったのだと思う。

*

では、非英語圏は、どうか。

こちらは、

英語圏内の文化貢献度 (特に商業的成功への貢献度)

の程度で、今回のSettlementによって「守られた」と安堵する人たちと、「外された」と危惧する人たちに分かれるようだ。

(上のドイツの記事は後者についてのものになる)。

興味深いのは、アメリカ国内では、SFやミステリーなどのパルプフィクション系の出版社は、アンチ和解案の立場を取っているのに対して、アメリカ国外では今回のSettlementに対して残念がっているように見えるところだ。

これは、要するに、一般向け、大衆向けの、パルプフィクションのような出版物については、少なくとも欧州については、自国語と英語の両方で販売を考える人びとが少なからず出てきているからだと思う。

たとえば、以前とりあげた、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の「なんちゃって続編」を書いた人は、北欧出身でイギリスの出版社から英語版でだしていた。別に英語の書籍は英語圏の人間が書くだけのものではなくなっている。

(欧州のコンベンションに行けば一目瞭然だが、そこでの討論言語は英語である場合が多い。イギリスなまりの英語をフランス人が話す一方で、アメリカ的な発音で英語を話すドイツ人がいる、というような様子が普通)。

最近では、日本でも、ドイツや北欧の作家によるミステリーが出版されるようになっているが、国境を越えて「本を売る」「しかも英語で」というのは、それほどおかしな選択肢ではない。

“Kite Runner”のKhaled Hosseiniのように、アフガニスタン出身の作家が、アメリカで英語で小説を出版し、それが映画化されて、さらに大ブレイク、という流れも、今日では全く当たり前のことだから。

英語版をだしておけば、ハリウッドのプロデューサーの目にとまっていきなりハリウッドで映画化という道も最近では多い。しかも、それは作品が素晴らしいから、という理由だけではなくて、端的に、ハリウッドが財政難によってオリジナル脚本の開発に予算を充てることができないから、原作本を映画化する方が早い、という理由もあったりする。

だから、出版物の一部(経営を考えれば大部分)には、「有名性」が成功のための「通貨」として圧倒的に必要となる世界が確実に存在する。その「流通性」を高めるツールが英語で書く、あるいは、英語版を用意すること。

そうした人びとにとっては、Googleで英語圏の出版物同様に検索対象になった方がいいわけだ。読者を増やすためにも、ビジネス機会を増やすためにも。

*

いずれにしても、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、以外の国は、今後、e-bookをどうしていくのか、自分たちで構想しなければならない。そして、そのためのテクノロジーをどう調達するかも同時に考案しなければならない。

英語圏の出版物、メディアについては、さしあたってGoogleらが行う技術開発の恩恵を受けることができる。

その反面、非英語圏については、Googleらが開発した技術をそのまま転用するか(ローカライズするか)、その国でオリジナルの技術を開発するかしなければならない。

これは、意外と、厳しい条件だ。

音楽やCG、つまり、音とイメージのデジタル加工技術については、ワールドワイドで、それこそユニバーサルな技術が開発され、その恩恵を(ライセンス使用料さえ払えば)どの国でも利用することができる。

日本人のIT生活のかなりの部分を、MicrosoftやGoogleのソフトウェアが支えている事実を踏まえれば、私たち自身、彼らの技術開発の果実を享受しているわけだ。

また、映像や音楽はそれだけで世界商品に転ずることができるので、インターネットの時代は容易に国外へスプロールすることができる。上述のように、他国で開発された技術を利用するだけでなく、他国で考案された各種「テクニック」を流用することも可能で、それは結果的に、他国のプロデューサーやアーティストともいい意味で競い合うことができる。

俗っぽくいえば、今どきのアニメがOPで、ちゃんとしたアーティストがちゃんとした楽曲を提供するのも、そのアニメが海外で見られれば(piracyの問題はとりあえず脇においておく)、そこで相応の有名性を獲得することができて、たとえば、国外でのコンサートも企画されたりする。そうしたことが実際にもう起きている。

映画やテレビ番組や、あるいは、ビデオゲームやアニメでの、複数国の間での影響の伝播など、もはや当たり前のこと。

だが、こうした自由度をテキスト文化は無条件には持ち合わせていない。

テキスト文化については、国語や文字の体系に左右されるから。

たとえば、2バイト言語圏(簡単に言うとアルファベットを表記文字として使わない国。文字数が段違いに多い)のソフトウェア開発については、MicrosoftにしてもGoogleにしても、開発拠点は、日本でなく中国に移っているのは、業界関係者の間ではあたりまえのこと。

とすると、テキスト文化については、今後、英語圏の動きとどうつきあっていくか、考えつつ、必要なツールについては、自前で準備することを考えないといけない。

でないと、ウェブ文化については、映像や音声、イメージや音楽については、多様なものを享受できるかもしれないが、印刷技術に集約されているような、テキスト文化については、それこそフォントの用意から自前で行うようにしないと、イラストの部分は世界標準級のクオリティでも、文字を扱うところでアンバランスなクオリティしか追求できない、なんてことも生じうる。

(たとえば、いまだに漢字変換できない漢字が多数あることが、日本の行政実務や法務を最終的に情報化に向かわせない大きな理由(というか足かせ)の一つになっているはず。このあたりの基礎インフラは、GoogleもMicrosoftもやってはくれない)。

つまり、文化の創造や再生産の部分に、既に、技術やイノベーションや、そのための開発費、というのが、深いところで関わるようになっている、ということだ。

ということで、今回のSettlementについては、むしろ、国際的な余波の方が大きいのではないかと思えてくる。

さて、小学生から英語を学ぶようになる次世代の日本人は、果たして彼・彼女らが大人になったとき、英語で本を読むのか、日本語で本を読むのか、どちらなのだろう。その選択に、e-bookのリソースの多寡は影響を与えるのだろうか。

答えは、30年後ぐらいには、わかってしまうことだけど。