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雑誌不況の中、Condé Nastが、1941年(!)の創刊以来70年間続いたGourmet誌の廃刊を発表した。
Condé Nast Closes Gourmet and 3 Other Magazines
【New York Times: October 5, 2009】
Ax Falls on Four Condé Nast Titles
【Wall Street Journal: October 6, 2009】
今回リストラ策として公表された廃刊雑誌は、Gourmetに加えて、Cookie、Modern Bride、Elegant Brideの合わせて4紙。
料理・食・レストラン関連の雑誌については、随分前から不調が伝えられており、GourmetとBon Appétitの二つのうち一つは廃刊になるのではないか、という噂が流れていた。しかし、大方の予想では、廃刊されるのはBon Appétitの方だと思われていた。
というのも、Gourmetは70年にわたって発刊され続け、業界のバイブル的位置づけになっていたからだ。Gourmetで紹介されることで一流のレストラン、シェフが生まれたケースは数知れない。単なる料理やレストラン紹介のような「情報」にとどまらず、「食と何か」という感じで、食をきっかけにした記事・エッセイが多数紹介されてきた。食周辺の書きものの集積地であり、それがゆえに、食文化の中心として権威ある存在だった。
そのGourmetが廃刊にされ、よりカジュアルで、レシピやレストラン紹介のような、食の情報に集中したBon Appétitが存続することになったのだから、関係者は驚かれずにはいられなかった。
GourmetではなくBon Appétitが選択されたことで、Condé Nastは、「名声よりも利益」、「名文よりも情報」、「質よりも部数」、を重視する編集方針に切り替わってしまうのか、と、広く(NYの)出版文化の行く末を憂えているような記事やブログも散見されるほどだ。
いささか感情的ともとれるこの反応にも理由はあって、それは、今回の発表に当たっては、McKinseyがコンサルタントとして参加し、ビジネスの将来性に対する分析ならびに提案をCondé Nastの経営陣に進言したこともあるようだ。
もっとも、Condé NastのCEOであるChuck Townsentはそうした疑問に対して、インタビューで、最終的な判断はあくまでもCondé Nast側で行ったことを明言している。
Conde Nast's Townsend on Why Gourmet Was Shut Down
【AdAge: October 5, 2009】
急激な業績不振のため(広告ページ数が昨年比で2割から4割減という状態)、GourmetとBon Appétitの二誌を残すことは最初から無理なことはわかっていたため、いわば苦汁の選択として、よりポピュラリティのあるBon Appétitの存続を決定したという。Gourmetについては、雑誌としての存続は断念したものの、Gourmetのタイトルを冠にした書籍やテレビ番組については継続し、そこで、Gourmetブランドの維持を図っていくようだ。
ただ、McKinseyならずとも、冷静に経営の視点から見れば、今回のことは、景気後退によって経営困難に陥った企業が、破産になる前に、プロダクトラインを整理統合する、という定石を行ったに過ぎない。
そもそも、Gourmetに限らずCondé Nast社全体が、NYのスノッブな出版文化の象徴のような出版社で、従来からその関係者、つまり、editorやjournalist、writerの処遇が破格に良かったことで有名だった。Condé Nastが発行する雑誌には、New YorkerやVanity Fairなどもあり、ある意味、NYセレブリティ文化の立役者的役割を果たしてきていた。
ただ、editorやjournalistが文化人然とした振る舞いができた背景には、Condé Nastが決して単体の企業ではないという事情もあった。現在、Condé Nastは、About Publications社の傘下の一企業。このAbout Publicationsは、Condé Nastの他にも新聞やテレビ局を保有する、メディア・コングロマリット企業の一つ。About Publicationsグループ自体の収益は、マス媒体としての新聞、テレビ局の収入が中心<だった。
だから、おおざっぱに言えば、新聞・テレビの収入で雑誌事業の財政的な補填を行ってきた、というのが実態なのだと思う。
(ちなみに、日本の場合、メディア業界は、新聞社がラジオ、テレビを一部「局」のような子会社として立ち上げてきたので、実質的に、新聞-テレビ-ラジオが同一系列の事業体となっている。それに対して、出版社は独立した存在であり、上のCondé Nastのような、新聞やテレビから財政的に補填される、という構図は直接的には当てはまらない。もっとも、出版大手の収益はながらくコミックと情報誌に支えられてきており、それらのポピュラリティは大なり小なりテレビの影響力によって確保されてきていた。つまり、間接的には、テレビ事業の影響力の恩恵を出版社も受けてきたということもできる)。
Condé Nastが、多少は華美なことをしても、NYのスノッブな文化の中心に位置することで、政治や文化、そして経済・金融に対しても、大きな影響力を行使することができれば十分おつりが来る、という構図だったのだと思う。実際、NYのミッドタウンには、アメリカの大企業のエグゼクティブが多数居住している。メトロポリタンやMOMA、ブロードウェイやリンカーンセンター、カーネギーホールのような文化施設も、彼らの大口寄付金があればこそ、充実したサービスを提供できる。そうした施設の集積によって、NYはアメリカの中で随一の文化的中心の地位を占め続けてきた。そうした文化装置の黒子の役割を、Condé Nast(やTime Inc.、Hearst Corp.)が担ってきた。
ところが、About Publicationsグループの頼みの綱である、新聞やテレビが、足下の広告不況で収益的に大打撃を受けてしまった。しかも、ブロードバンド化の中で、仮に景気が戻ったとしても、以前のような収益性を、新聞もテレビも取り戻すことはできないのではないか、と言う観測も語られている。そういう中で、Condé Nastも、会社単体や、個々の事業=雑誌単体での収益性の確保、という目標を掲げざるを得なくなった、ということだ。
実際、About Publications全体としては、インターネット事業やオンライン出版に力を入れている。気がついてみれば、WiredやArs TechnicaのようなIT系の出版物も、Condé Nastの傘下にある。最終的には一年あまりで廃刊という憂き目を見たものの、Condé Nast’s Portfolioのような、グラフィック重視の経済誌を、オンラインと雑誌の双方で立ち上げていた。同誌のウェブサイトは、ビジネス・金融を扱うサイトとしては派手だが、その分、オンライン出版に賭ける意気込みを感じさせるようなスタイリッシュなサイトで、個人的には面白い試みだと思っていた。ビジネスや金融関連のサイトは、情報重視で味気ないサイトが多い。ForbesやFortuneのサイトですら味気ない。そもそも、Web 2.0以後の、mash-upなどが登場して以降の雑誌サイトは、インターフェースデザイン的に最適化を図ってしまったため、どのサイトも似たような顔つきになってしまった。それに対して、Portfolioのサイトは、レイアウト(というかグラフィックやタイポグラフィーの使い方)に雑誌編集的なセンスがかなり盛り込まれているような印象をもった記憶がある。
Condé Nastにとって重要なことは、紙の出版物にこだわることではなく、NYのスノッブな文化を維持し、その中心に位置すること。その対象たる各界の要人やその子弟が、オンラインの接触を増やすようならば、そこでも早期にビジビリティを確保し、引き続き彼らに対する影響力を維持していこうとするのはとても自然な発想だと思う。裏返すと、そのような「影響力の網の目」こそが自分たちの社会的価値≒経済的価値の源泉であることに自覚的に振る舞っているのだと思う。
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上のインタビューで、CEO のTownsendは、Condé Nastは、今後、mass magazineを目指すのか、という問いに対して、従来通り、high-end magazineを目指す、それがCondé Nastだ、と応えている。
しかし、これが本当に実現できるのかどうか、というのは微妙なように思っている。
以前にも指摘したが、総じて、NYのSnobな出版文化が、アメリカ全体でマージナルな(周縁的な)存在にまでダウンサイズされてきている、というのが実態だと思うからだ。つまり、mass magazineに対するhigh-end magazine、一般的には、quality magazine(高級紙)と呼ばれるものを支える「文化的な名声の回路」が不調をきたしてきているように思うからだ。
quality magazine(高級誌)というのは、ビジネスとしては、実際にquality magazineが取り上げる世界に所属する人だけでなく、そうした世界に憧れはするものの実際にはその世界に足を踏み入れることはついぞ適わない多くのギャラリーが、その雑誌を購入してくれることで成り立つ。いわば「夢想」「幻想」の売買がなされている。だから、そうしたquality magazineが経営的に成功を収めるためには、書き手と読み手、そこで取り上げられる人びと、そして、その場に広告を出稿する人びとの間で、その「夢想」や「幻想」が共有されていることが大前提になる。
だが、今回のGourmetの廃刊は、そうした「幻想」がアメリカでも通用しなくなってきた、ということを示唆しているように思う。そして、そうした「幻想」の共有基盤がなくなった後に来るのは、しばしば、メディアによる「憧れよ!」「消費せよ!」の大合唱となる。
というのも、「幻想」基盤があれば、消費も文化の一環に組み込むことができる。いわば、目的に対する手段として個々の商品の購買=消費を位置づけることになるので、文化的な価値を、スノッブに語っていればそれは同時にものの消費を誘引する効果を含むことになる。けれども、「幻想」がなければ、幻想というコンテキストを共有しない人に、いわば、一見さんに、ものを「売りつける」ことの方が優先される。そうすると、より直接的に購入を促す言葉が連呼されがちになる。不景気になると、広告がみすぼらしくなるのは、そういうことだ。
(しかし、日本の場合、そうした「消費せよ!」の大合唱もついには現実の(主に若者の)意識からは遠く離れてしまい、消費に懐疑する世代が登場している、ということを、内田樹教授が彼のブログで、彼の研究室に卒論のテーマを相談に来た学生の様子を見ながら、記していたと記憶している)。
イメージのバブル崩壊は、現実世界のバブル崩壊よりも遅れてやってくる。
これは、日本人ならば経験的にわかることだと思う。
そして、同じことがアメリカの場合も起こるとすると、Condé Nastの考える文化的な影響力の維持、というのは、よくてせいぜいNYローカルなものにとどまってしまうのではないだろうか。
そういえば、アメリカでは、来年、10年に一度のcensus(国勢調査)があり、その結果で、下院議員の州に対する配分が変わる。ヒスパニックによる人口増や、居住条件の良さからの他州からの人口流入によって、テキサスの人口増は間違いなく、その分、ニューヨークやペンシルベニアの人口が減り、下院議員の割当数も減っていくという見通しが発表されている。
そうした事実もまた、遅れたリアリティをもって迫ってくることになる。
ライフスタイル誌というカテゴリーを誕生させたCondé Nastの動向は、それだけに、いろいろと示唆的であることは間違いない。