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先週末あたりから、アメリカの週刊誌を中心にオバマ特集号が発売されているが、各誌のサイトでそれらの記事を眺めていてふと気づいたのだが、オバマに対する評価は様々なのだが、ただ、その際の評価の流儀にはどこか共通しているところがあるようにみえる。
どの記事もたいてい、過去のアメリカ大統領のエピソードを引き合いに出しながら、あれこれ分析している。FDR(ルーズベルト)やレーガンはもとより、ウッドロー・ウィルソンやアンドリュー・ジャクソンあたりまで引かれている。あたかも、書き手の人たちに、過去の大統領のエピソードを参照するのが初動としてプログラムされているかのごとく。彼らは執拗に引用するし、注をつける。あたかも、今の現実に対して、過去の出来事を結びつけながら考えるがごとく。
英語で言うところの"revisit"=再訪、日本語だと温故知新あたりか。
日本人だと、中西輝政あたりの書き方か(ただ、参照される歴史は、日本ではなくイギリス関連だが)。
過去の経験を現在に生かす、過去を今にひきよせる。
人間のやること、とりわけ集団行為、集積結果としての社会の動きは繰り返して見える。
よく言われるように、社会科学は自然科学と違って、実験が出来ないから、どうしても似たような状況で「繰り返して見えてしまう。そういう点では、シミュレーションが方法論的に社会科学(や人文科学?)に与えた影響は捨て置けないものだが、それはまた別の話。
ただ、統計的事実の渉猟が簡単になった情報社会のもとでは、そうした測定結果が即時に社会活動(典型的にはマーケティング活動)にフィードバックされるし、同時に、測定結果が新たなデータとして入力されてシミュレーションとして未来のオプションが想像=創造される。
こう書いていて本人も何か気づいたような気がするので、歴史とシミュレーション、については、またの機会に掘り下げてみたい。