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アメリカの報道番組の顔である『Meet The Press』のホストであるTim Russert(ティム・ラッセル:以下ティム)が心臓発作で亡くなってから一ヶ月が過ぎた。
番組自体は、現在、トム・ブロコー(以下、ブロコー)が暫定的な司会者として続いている。ティムの時と比べると、よくいえば非常にジェントルな番組に、わるく?いえば、緊張感のない番組になっている。
ティム自身がもともと民主党政治家のスタッフとしてキャリアをスタートしたこともあるのだろうが、彼が出演者になげかける質問は執拗であり、生半可な回答では、ティムの質問をかわすことはできない。そういう場面が頻繁に見られた。
ここにあるのは、アメリカでいうディスカッション、ディベートに相当する言葉の技術が駆使されていることだと思う。つまり、ティムの質問は、出演者が隠しているであろう何かを暴露させようとするものではなく、むしろ、出演者(その多くは政治家や行政官)が日頃わかりやすさを求めるが故に単純に語っていることが実はそれほど簡単なものではないことをつまびらかにするためにこそ行われていたと思える。
つまり、ディベートでいう、Devil’s Advocate(悪魔の弁護人)の役割を、テレビ画面の中で果たしていたのではないか。
いいかえると、ティムの質問は、複雑なことを複雑なまま、ただし順序立てて語ることを可能にする役割を果たしていた、ということ。
その複雑さには、目の前にある課題自身が抱える複雑さもあれば、出演者(政治家や行政官)が抱える利害関係に帰因する複雑さもある。そうした複雑に絡んだ糸を、ある視点=仮説から一つずつ解きほぐしていく。
こうしたティムの議論方法は付随的に、ある政治家のもつ倫理観のようなものも明らかにしていく。
政治家である以上、誰もが政局ごとに、あるいは政策課題ごとに、その立ち位置を微妙かつ現実的に調整せざるを得ない。しかし、その調整は時に大きくぶれる時もある。そうしたときに問われるのは、その政治家の倫理観だ。ただし、倫理観といっても、単純に道徳とかモラルということではなく、その政治家の行動や意思決定の基盤にある考え方のこと。英語で言うところのintegrityという言葉に該当する。この言葉に該当する概念はどうも日本語では見あたらないのだが、ここでは、「判断における一貫性」ぐらいにしておく。
こうした一貫性を明らかにするのに、ティムのディベート手法は役立っていた。というよりも、むしろ、およそ、ある人物の考え方や思想は、その人の行った個々の判断や行動の流れを通じて、はじめてわかるものである。だから、ティムとのやりとりは、出演者の人となりを明らかにする過程でもある。
どうやらこうしたことが、ブロコーにアンカーが代わってから感じる違和感につながっているように思える。
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これを一段抽象化して考えると、ティムの議論の仕方は、全体性の切り出し方、という点で、今日的だったといえる。
つまり、彼の執拗な質問を通じてわかることは、
①世界=社会は複雑であること、複雑な利害で構成されていること
②出演者一人で何かができることではないこと、どのような人間であれ、彼/彼女も一つの利害を体現していること
そして、ここから、
③一人の人間では担いきれないものとして、世界=社会の「全体性」が感得されること
複雑なものを複雑なまま捉える、そのための我慢強さ、というか忍耐力というか、そうしたものを伝えるのに役立っているようにも思える。
もちろん、アメリカの場合、選挙は常に決められたスケジュールの中で履行される。大統領選は四年に一回、連邦議会議員は二年に一回、という具合に。ちょうど、会社が会計報告を一年単位で取りまとめ、株主からの審判を仰ぐのと同じように、一定の時間の中で、政策の当否やその支持が確定されていく。こうしたメカニズムもまた、世界=社会の「全体性」を仮構しつつも一定のリアリティを与えることに寄与している。
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なお、『Meet The Press』はNBCの報道看板番組であり、日本でもMSNBCのサイトを通じて視聴することができる。
アメリカの場合、報道は「人々の啓蒙力=人々への影響力」の確保と行使こそが企業活動の目的であるため、ネットでの報道にも積極的。日本と異なり、新聞とテレビの間に直接的な資本関係がないため、新聞=マジメ、テレビ=娯楽、のような棲み分けもなされていない。その分、新聞とテレビの間でも、さらに、高級雑誌、ブログ、も加わって、いい意味で競い合いながら報道活動が行われている。
(『Meet The Press』も、そういう競い合いの中で、NBCのフラグシップ的な番組として位置づけられてきた)。
また、「報道」という行為に照準が当たっているため、テレビ、新聞、週刊誌、の間で転職も頻繁に行われるし、フリーランスの道もあり、そうした人的移動が異なるメディアの間での報道合戦のクオリティを支えることになる。
このあたりは、報道番組と情報バラエティ番組の間の境界線がわからなくなってきている日本とは事情が異なる。というか、この場合、境界線がどうこうというよりも、複雑なことを複雑なまま語る方法論がおそらく日本には根付いていない、ということが本当の課題なのかもしれない。