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2018年3月4日に開催された第90回アカデミー賞で、ギレルモ・デル・トロが監督賞を受賞した。同時に『シェイプ・オブ・ウォーター』も作品賞に輝いた。
Mexico’s cinema powerhouse: The three amigos who are sweeping the Oscars
【EL PAIS: March 5, 2018】
ギレルモ・デル・トロといえば、映画『パシフィック・リム』で怪獣を、ドラマシリーズの『ストレイン』でヴァンパイアを蘇らせた。今回の『シェイプ・オブ・ウォーター』でも、そのような彼お得意の怪物(クリーチャー)趣味が全開のゴシック的世界を現出させている。そうしてマーベル全盛、ゾンビ全盛の時代に真っ向から対抗している。
彼のそうしたクリーチャー趣味は、メキシコ出身ということもあって、現実世界に魔術めいた幻想を重ねることで知られるラテンアメリカ文学のマジック・リアリズムの映像的実践であると評されることが多い。それはたしかにそうなのだが、その幻想性は、多分にファンタジックである分、社会よりも個人の心性的な部分に焦点が当たっているように思える。
それは、同じクリーチャーを存分に扱うスティーブン・キングの物語が、彼がアメリカ北東部の、広い意味でニューイングランドに属するメイン州を舞台にしているからか、多分にプロテスタント的な「闇に立ち向かう」という要素が強いのと対照的だ。メキシコ出身のデル・トロの扱うクリーチャーの世界は、闇と対決するというよりは、むしろ、闇と共存できる余地を残しているようなイメージがある。この場合、闇とは、あくまでも当人の心の中の闇なので、その闇の存在をむりやり排斥しようとはしないということだ。
そして、この過度に「対決」を前面に出さない幻想性が漂う画面の空気は、デル・トロだけでなく、近年、彼と同じように監督賞を受賞したメキシコ出身の、アルフォンソ・キュアロン(『ゼロ・グラビティ』 2013年)やアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ(『バードマン』 2014年、『レヴェナント』 2015年)にも共通して見られるもののように思える。
彼らの作品では、登場人物たちは何らかの極限状態を経験させられるが、それは往々にして何かを察するための幻惑めいた悪夢のような経験に過ぎず、過程はどうあれとにかくそこから戻ってこれさえすればよい。その結果、よい意味で(最終的な到達点を見据えてさえいれば)過程として、感情の暴発、あるいは快楽などに溺れてもよいと思わせる雰囲気がある。「ケセラセラ」というか、時には酩酊も人には必要だというか。その点では、メキシコ出身の彼らだけでなく、昨年、監督賞を受賞したデミアン・チャゼル(『ラ・ラ・ランド』 2016年)にも通じているもののように思える。
幻想めいた雰囲気や寓話めいた展開によって、結論めいたものがそのまま宙吊りにされてしまうといえばよいか。もっとも『ラ・ラ・ランド』でチャゼルは、律儀に「アナザーエンディング」を対置させることで、映像的な事実として宙吊りそのものを表現してしまっているのを見ると、その部分をはぐらかしたままエンドマークを添えてしまえるのが、メキシコ出身の三人の監督たち――しばしば「スリーアミーゴス」と称される――のもつ「マジック」なのかもしれない。
How Mexican Directors Conquered Hollywood
【New York Times: March 3, 2018】
裏返すと、そのような余裕のある作風がアメリカ出身の監督、ないしはハリウッド出身の監督の中に、今は見い出しにくいのかもしれない。実際、今のハリウッドは、ワインスタインが発端となった#MeTooムーブメントの渦中にあり、いわば禁酒法時代のシカゴのような緊張感の下にある。ラテンアメリカ諸国と同様にカトリック国であるフランスで大女優のカトリーヌ・ドヌーヴが、#MeTooに対して眉をひそめずにはいられなかった「生真面目さ」が、元来リベラルなハリウッドには漂っている。
もちろん、メキシコ出身であるとは、アメリカにおいては勃興するマイノリティであるヒスパニック/ラティーノを連想させ、その「マイノリティ」への高い評価もまた、生真面目な今のハリウッドを現しているのかもしれない。
その意味では、現在のPope(ローマ法王)であるフランシスコ法王が、アルゼンチンのイエズス会出身であるように、ラテンアメリカ由来のカトリック的世界というものが、もともとはプロテスタント的なものから始まった北米社会においても一定の地位を得つつあるように思える。もちろん、もっと丁寧に扱うべき話題ではあるが。
ともあれ、まずはとりあえず、『シェイプ・オブ・ウォーター』を観てみるところから、という気がしている。