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May 27, 2013
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junichi ikeda

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【お知らせ】  『ウェブ文明論』(新潮選書)、刊行されました。

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May 27, 2013 17:52 jst
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5月24日に新潮社から

 『ウェブ文明論』

が発売されました。

大手書店の店頭には並び始めましたので、よろしくお願いします。
アマゾンのサイトはこちら → ここです

2010年の春から約三年に亘り、文芸誌『新潮』に連載していた『アメリカスケッチ2.0 ― ウェブと文化の未来を考える』を編集し修正を加えたものです。目次を見てもらえればわかりますが、全体を四部構成とし、その流れに合わせて、連載原稿に大幅に手を入れました。

今風にいえば、書籍化というよりも、書籍「版=バージョン」というところでしょうか。つまり、書籍という体裁に即して、オリジナルの素材に相応の修正を施した、ということです。

既にあるテキストを「編集」すると、単体のテキストとは異なるコンテキスト/ストーリーが生じるわけで、実際、書籍化にあたって編集した結果、その配置に触発されて、新たに書き足された部分も多々あります。そのため、最終的には333頁という、新潮選書の中では厚い方の部類に属するものとなってしまいました(その分、読み応えはあると思いますが(笑))。

ところで、この『ウェブ文明論』、刊行順序では最後になりましたが、先に出版した二冊、すなわち、

 『ウェブ×ソーシャル×アメリカ  〈全球時代〉の構想力』 (講談社現代新書) 

 『デザインするテクノロジー  情報加速社会が挑発する創造性』 (青土社)

の出発点であり、原点となった本と言えます。

つまり、上記二冊のための導入部として、『ウェブ文明論』を位置づけることができます。あるいは、逆に、上記二冊をそれぞれ、『ウェブ文明論』に対する長大な脚注として読むこともできます。

むしろ、先行した二冊を読んで、この著者は、ウェブを考える上でどうしてこんなにアメリカに拘っているのか?という疑問を感じた人に対して、その疑問に応えるのが『ウェブ文明論』だ、ということもできるかもしれません。

『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』が約15万字、『デザインするテクノロジー』が約25万字、そして、『ウェブ文明論』が約20万字なので、都合して60万字。我ながらよく書いたなと半分呆れてもいるのですが、著者としては、三冊を並べて読んでいただければと思います。無数のリンクが張られているはずなので。

三冊で「アメリカ三部作」というのが、書いた側のイメージです。

もっともこういったからと言って、これでアメリカについて記すことが完結したわけではありません。今後も引き続き、ウェブであるかどうかを問わず、アメリカの動きについては書き記していきたいと思います(このあたりは『ウェブ文明論』の「あとがき」を参照して下さい)。ベースラインとしてのアメリカのことについては大分クリアにできたので、今後は、この先についてどうなるのだろう、ということに改めて向かえればよいな、と考えています。

***

ところで、『ウェブ文明論』には、帯の紹介文として、次のような斎藤環さんの言葉が記されています。

 「日本人の視点がなければ決して書かれ得なかったアメリカ文化論であり、世界文明論である。」

この一文は、もともとは、

 「“アメリカの他者”によるアメリカ文化論」

というタイトルの斎藤環さんによるレビューから抜粋されたものです。新潮社の『波』2013年6月号の76-77頁に掲載されていますので、関心のある人は是非書店店頭でこの冊子を手にとって見て下さい。

一つ補っておくと、このレビューのタイトルにある「アメリカの他者」と言う言葉が、実は帯に引用された文にオリジナルでは付されていました。つまり、

 「“アメリカの他者”としての日本人の視点がなければ決して書かれ得なかったアメリカ文化論であり、世界文明論でもある。」

というように、「“アメリカの他者”としての」という言葉が冒頭の「日本人の視点」に加えられていました。そして、こうなると、帯の推薦文の意味も少しばかり印象が変わることと思います。

つまり、「日本人の視点がなければ」という部分は、「他でもない日本人だからこそ見ることができた・・・」という日米間の二者に限定されたニュアンスではなく、「アメリカの他者であればどこの国の人でもいいのだが、その一例としての日本人が見た・・・」というニュアンスが強まります。このことには注意しておいてよいと思います。簡単にいうと、「アメリカ人でない任意の外国人の一人としての日本人」からの視座、ということです。

なぜ、この点に注意を促しているかというと、以前留学していたニューヨークでは、その「アメリカの他者」としての外国人が多数居住・往来していたからで、少なからず、アメリカの中の「外国人」たちが抱えるアメリカ社会やアメリカ人に対する異同の感覚をも、知らぬ間に自分自身でも取り入れていたように思えるからです。そして、そのような経験があったからこそ、ニューヨーク州(=state)の「外」からやってきたアメリカ人に対しても、フラットに見る事ができたように思っているためです。

いずれにしても、斎藤さんの「アメリカの他者」と言う言葉は、書いた本人も忘れかけていた感覚を思い出させてもらえた点で、とても有意義でした。斎藤さんがフロイト=ラカンの流儀に沿った精神分析医であることを踏まえると、もう少し突っ込んだ著者自身の自己分析も可能に思われますが、それはいつか考えられたらいいなぐらいに思っています(笑)。

ということで、『ウェブ文明論』、どうぞよろしくお願いします。