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Elena Kaganの最高裁判事指名ヒアリングにあたって、現在のRoberts CourtがConservativeに過ぎるという指摘をしている記事について昨日エントリーを書いた。その際に、保守系のWSJは黙っていると記したのだが、案の定、黙っているどころか、デモクラット=liberalはKaganのヒアリングを通じてRoberts Courtを非難している、と、逆に、WSJがデモクラットを非難する方向で記事を載せている。
Confirmed: Hearings Aren't Pleasing Anybody
【Wall Street Journal: July 1, 2010】
実はこの記事、もともとは“Democrats Use Kagan Hearing to Criticize High Court”というタイトルであった。最初にメールニュースで配信されてきた記事を見たときはこのタイトルで、実は記事自体ももっと長く、デモクラットがKaganのヒアリングをだしにしてRoberts Courtを非難している、と批判し、あからさまに党派色の強い記事になっていた。
昨日の今日でちょうどいい対比になると思ってブログに書こうと思ってもう一回見に行ったら、上のように、大分穏便な記事になっていることに驚いた。WSJの記事はこういう具合に、時々、筆圧が強い、というか、勢いで書いてしまったものがそのままアップされて、しばらくしたらいろいろと修正されていたりする。この記事のそのケースに当てはまる。
それでも、liberal = NYT、conservative = WSJ という枠組みは知るにはいい例のように思う。このように、アメリカのジャーナリズムは、互いにかなり党派制を出して、良くも悪くも、公論や国論を「二分」しようとする傾向がある。この傾向は昔からあったわけではなく、80年代以降、conservative系のメディアが増えてきてから顕著になってきた。
ある意味で、実際の政治はleftとかrightとか関係なくcenterを歩むことが求められるのが現実的になってきている時代において(なぜなら、center志向であるindependentが選挙におけるキャスティング・ボートを握るから)、言説のレベルでは、むしろ、right/left, conservative/liberal、という具合に対立が鮮明になっている。いわばシャンタル・ムフあたりがいう「闘技的民主主義」を地で実践しているようなところがある。
言説としては二極(bipolar)であることを維持することで、言説上=空想上は複数想定可能だが、現実的には、最終的にはある時とある場所で一つしか選べない選択肢について、選択上のギリギリのところ=臨界点を明らかにし続けることが可能になる。選択上の問題点を「二極」を維持することで明らかにすることができる。
裏返すと、アメリカのジャーナリズムメディアはcenterやneutralという立場が取りにくくなってきていることも確か。ちょうどLarry Kingの降板が伝えられているCNNなど、MSNBC = libera/left/Democrat と Fox News = conservative/right/GOP との「二極」の間で取り残される形で視聴率が落ちてきたというのがここ数年のトレンドだった。
ただ、急いでつけ加えると、二極になっているからといって、MSNBCやFox Newsが、プロパガンダ的な、扇動的な伝え方をしているかというと必ずしもそうではなくて、一応、事実と主張は混同させない形で論じられている。つまりargument=立論がきちんとなされている。
なお、しばしばFoxについては扇動的だという非難が起こるが、結局のところ、それはFoxに対立する立場=liberal/leftの人たち(ジャーナリストを含む)が主張しているものだから、それを全面的に肯定するというのも公平さに欠けるだろう。
だから、大事なのは、闘技的な二極構造が言説レベルで維持されていて、その対決=競合環境が、ここぞという時の選択肢に対して、問題を臨界点にまで顕わにした議論を可能にさせている、というところだと思う。
裏返すと、客観報道とか不偏不党とかとは異なるところに、アメリカのジャーナリズムは自らの価値や(職業)倫理を置いているように思う。議論を通じて「本当の問題点」を炙り出していくところに存在意義を見いだしているというか。もちろん、「本当の問題点」は対立する立場では当然異なるが、しかし「本当の~」を希求するという価値は共有している(この点を放棄したら、単なるadvocacy=活動家になってしまう)。こういうところにアメリカのジャーナリズムの矜持があるように感じる。