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『1Q84』BOOK3はゼロ年代をリセットする。

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以下は、5/6にジュンク堂新宿店で行った、福嶋亮大さんとのトークセッションに向けて用意していたメモに基づいたものです。トーク用のメモのため、もともとは箇条書きの、文字どおり「メモ」でした。そのため、個々の論点の間のつながりは読み物としては緊密さに欠けていると書いた本人も感じています(苦笑)。予めご了解いただきたく。

*

村上春樹の『1Q84』BOOK3(以下Q3と表記。Q1、Q2についても同様)を読んで、最初に感じたことは、それがとても現代風だということだった。現代風というのは、発刊された2010年4月の空気をまとったものという意味だ。多分、そういう印象自体は、本のタイトルが示唆する1984年=過去の日本の回顧、というイメージとずれてしまうものだが、しかし、そう感じてしまったのだから仕方がない。

以下、そう感じたワケを記していく。

*

最初に指摘すべきは、Q3は、村上春樹批評のキーワードのクリシエ化とそれによる葬送を試みているように思えたことだ。

Q3が発刊されるまでの間、Q1、Q2については、多くの語り、批評が紡がれた。「村上春樹インダストリー」というべき現象が起こっていて、そこでは、過去の村上春樹作品との比較による善し悪しや、現代の他の作家、作品との比較で、Q1、Q2を位置づけようとするものがあった。

その全てをレファーする余裕はないし、そもそもブログまで含めれば全ての村上春樹語りをフォローすることなど不可能と断言していい。だから、いくつか見かけたもので典型的なものを記すと:

●「さきがけ」という存在は、オウム事件との連関を想像させる、云々。
●「ふかえり」という登場人物は、エヴァンゲリオンの綾波レイのようだ、云々。
●「天吾」は、その受動性から美少女ゲーム(エロゲー)の主人公のようだ、云々(その延長線上で、ふかえりもエロゲーに出てくる女子のようだ、云々)。
●「青豆」は、戦う女子≒戦闘美少女で、かつ、自ら酒場に男を探しに行く、肉食系女子、だ、云々(物語内描写からすれば、青豆が「美的」かどうかは今ひとつわからないが、おいておく)。
●「小松」という編集者は、村上春樹担当の「あの」編集者がモチーフか、云々。
●『1Q84』は、あからさまにジョージ・オーウェルの『1984』のパクリだ、だからXXが似ている、似ていない、云々。
●『1984』のビッグブラザーは、『1Q84』ではリトルピープルという形に変えていて、それは今日的監視社会の隠喩だ、云々。
●そして、この監視社会話は、村上春樹がエルサレム賞講演で引用した現代的システムの隠喩だ、云々。
●青豆の章と、天吾の章が、交互に進み、当初は平行線のように独立して進んでいた話が途中から互いに交叉していく物語構成は『世界の終わりとバードボイルドワンダーランド』以来の村上春樹流の物語構成だ、云々。
●夢≒異界、を設定することで、登場人物たちは時空の違いを易々と超えて相互交信してしまうのは、河合隼雄流のユングの集合無意識の反映だ、云々。
・・・

こういう具合だ。

そして、こういうことが多数指摘できるところから、Q1, Q2は村上春樹作品の長大な模造品≒シミュラークルだ、という評も出てくる。

実際、私自身も、Q1, Q2を最初に読んだ印象はこういうもので、確かにこれは村上春樹っぽい作品だと思った。今風にいえば春樹フラグが随所に多数たちまくり、とでもいえる構成といっていい。だから、村上春樹自身が村上春樹作品を素材にして「二次創作」した、という、当世風の解釈の仕方にも頷けるところがあった。

もっとも、私は『ノルウェイの森』以来、村上春樹を、というか、村上春樹だけは、コンスタントに読んできた方なので、村上春樹的すぎるから嫌だ、とか、なんだかなぁ、と嘆息することもなかったことは記しておく。十分楽しめたし、それでいいのではないかと思った(要するに、わざわざケチを付ける動機が私の中には見当たらないのだ)。

何で読んだかは忘れたが、確か加藤典洋か誰かが書いた村上春樹評として、村上春樹は「男女共学の私大の文学」とあって妙に納得した記憶がある。もちろん、それは、私自身が早稲田で学んだということも影響しているという自覚はある。その意味で、『ノルウェイの森』は、早稲田の文学部のある戸山キャンパス、都電、和敬塾、高田馬場、新宿、など、早稲田アイコンが多数あって、それだけで、『ノルウェイの森』の帯にあった「リアリズム120%(ちょっと記憶は曖昧)」という惹句にころっとだまされていた(笑)。

何が言いたいかというと、要するに私は普通に村上春樹ファンなので、このエントリで記されていることは、そういう方向にバイアスがかかったものである、ということだ。ご了解下さい。

昔から村上春樹を読んできた人間からすると、もう少し強く言えば、村上春樹こそが小説を読む際の参照点になってしまう読み方をしてきた人間からすると、『1Q84』が村上春樹作品のデジャビュで満たされていることはよくわかる。それに、折に触れて村上春樹自身による文学評や、あるいは、彼が手がけた翻訳作品(カーヴァー、フィッツジェラルド、チャンドラー、等)の解説の中に埋め込まれた村上春樹の文学観に触れてきた感じからすると、『1Q84』で何をしたいのか、は、たとえば、「カラマーゾフの兄弟、のような総合小説が書きたい」、そのためには「三人称で書きたい」という村上の希望の表明を踏まえると何となくわかった気がしていた。

だから、『1Q84』がQ1,Q2では完結しないだろう、というのも容易に想像ができたし、実際、Q3は発売された(そして、Q3の読後感からすれば、おそらくQ4も出ることだろう)。

*

とまれ、上に記したQ1,Q2評がひとしきり流通した中、Q1,Q2の発行から約一年後にQ3は発刊された。

(1巻、2巻が同時に発売され、それから時をおいて3巻目が発刊されるのは、無論、『ねじまき鳥クロニクル』の反復に見えるが、それは脇に措いておく)。

そのQ3を読んでの印象は、上で記したようなQ1,Q2評を覆すもののように思えた。Q1,Q2であからさまに記された過去の村上春樹作品や村上春樹評のためのガジェットを村上春樹自身が自覚的に記し、自覚的に宙づりにしているように見えたからだ。

Q3では

●「さきがけ(≒オウム事件成分)」も「ふかえり(≒エヴァ・エロゲー成分)」も後景に退いていて、物語の中核にはでてこない。
●自発的幽閉状態にある青豆にかわって牛河(!)が狂言回し的に物語を駆動する役割を担うことになった。対位法的な展開が微妙にずれていく。
●Q3の最後の方で、作中で自覚的にユングが参照されている。

特に、ユングが直接参照されているところで、私自身は、Q3という作品は、それが2010年に入って刊行されたという事実とあいまって、過去の=ゼロ年代までの、村上春樹評のクリシエを禁じ手にし、それらクリシエによらず新たな言葉で村上春樹作品を評してみせろ、と村上春樹が挑戦してきたように感じられた。

そう考えると、Q1,Q2があからさまに過去の村上春樹作品のシミュラークルであったのも、村上春樹自身が過去の村上春樹作品に一定のリスペクトを払いつつも同時にレクイエムにしようとしていたようにも思える。葬送、送りの儀式として。

だから、「さきがけ」も「ふかえり」もQ3では直接的には物語には関わらない。

しばしば「95年断絶説」として参照されるものは、95年に起こったオウム事件、阪神淡路大震災、という二つの歴史的事件によっている。それは、また、95年が終戦後50年を経たものであったということにもよっていた。ゼロ年代と呼ばれる2000年代の言葉は、世紀が911事件という世界的事件で始まったこともあって、圧倒的に「崩落」感とともに語られるようになった。

想像するに、村上春樹は、そういう形で出来上がってしまった、日本の「ゼロ年代の(文学もしくは表象の)風景」をいったんリセットしないことには、2010年代の創作ならびに批評は始まらないと思ったのではないだろうか。

オウム事件が私たちに一種の集合的記憶として登録されたのは、もちろん、多数の報道活動の結果紡がれた無数のイメージによっているわけだが、その中でも村上春樹自身が記した『アンダーグラウンド』に代表されるオウム事件(の被害者・加害者)に関するノンフィクションは出色だった。カポーティが『冷血』で示したような、ニュージャーナリズム的な、文学的記述と現実描写が交叉するような表現的挑戦を、村上春樹自身が行ったものだった。

この村上によるノンフィクションは、95年断絶説を言説として補強するには恰好の証言集であったことはほぼ間違いない。だから、村上からすると、オウム事件の持つ「言説的磁場」を強化するのに結果的に加担してしまったことに対する、一種の責任のようなものも感じていたのかもしれない。

村上自身は、既に『神の子どもたちはみな踊る』の中で、95年断絶説のもう一つの象徴である阪神淡路大震災の爪痕を、物語的体験=想像力を経由して間接的に癒やそうとしていた。このことを踏まえると、『1Q84』は同じことをオウム事件について行おうとしているのかもしれない。そして、それは、『神の子どもたちはみな踊る』の中で、当の地震のあった時に、その場所に居合わせなかった人たちの日常的所作を描くことで、地震の記憶の絶対化と相対化を同時に行い、宙づり状態にすることで、その場に居合わせなかった人たちの言説を少しだけ軽くすることを試みたように。

決してその事件を忘れることはない、けれども、それに囚われることもない。

そういう状態を現出させることを『1Q84』で企図したのかもしれない。

(もちろん、多くの人々の声を聞き、それをあたかも霊媒師のように記していく作業には、精神的に相当の負荷をかけることは、カポーティが『冷血』脱稿後に示した精神の不安定を知れば、想像することは容易だ。村上にもそういうことがあったのかもしれない)。

「さきがけ」に比べれば「ふかえり」の後景化はもう少し小さな事件かもしれない。それは、ゼロ年代において、エヴァンゲリオンとか美少女ゲームとか、そのようなフォーマットで日本のポップカルチャーが語られること自体を、村上は戯画的に=パロディとして扱いたかったのかもしれない(そのフォーマットで村上春樹作品も読み解かれてしまうわけだから)。むろん、パロディだから、これもまた否定でもなく肯定でもなく宙づりにする対象として取り出すところに眼目がある。「ふかえり」を主題化することによって美少女成分で語ることをしばし禁じ手にしようとする。そうすることで、その手の成分で語ろうと思っていた人たちの語りもしばし封じてしまう。そういうことなのかもしれない。

(もちろん、Q4において、「さきがけ」や「ふかえり」が再度表舞台に上ってくる可能性もある。ただ、その時は、オウムや綾波の類似で語るのが憚れるような、物語的変奏を仕掛けてくるのではないだろうか)。

*

ユングに自発的に言及したことも大きいと思っていて、この部分によって、『1Q84』は、村上春樹作品に頻繁に登場する、異界=夢=井戸・地下体験、を物語内で直接的に自覚的に取り上げる用意がある、ということの作者による表明ととれる。この点において、『1Q84』は、村上春樹自身による村上春樹作品の「批評」とも読めるわけだ。

裏返すと、批評家は、この作者自身による自作の批評フォーマットにいかに対処するかが求められる。なぜなら、作者自身による批評は、創作を触発する契機がどこにあるかという点で創作行為そのものと直結しているので、これを覆す批評は、そうした作者自身の創作行為を更に鼓舞するようなものでなければならないはずだから。そして、これは、そもそも通常の批評文の形式で対応することができるのか、という問題を孕むことになる。

この点について、批評ではなく小説の形式で、村上春樹評が抱えていた問題に対して一定の答えを出そうとした試みが、東浩紀による『クオンタム・ファミリーズ』だと思っている。つまり、東は村上とほぼ同時期に村上春樹評やゼロ年代の批評風景に対してそこからの脱出策の一案を小説という形で示したことになる。「95年の分水嶺」や「村上春樹は美少女ゲームのオリジンだ」という見方の流布に東は大きな影響を与えたと思うが、東自身は、そうした見方がもたらす罠に対しては『QF』を通じて率先して対応したのだと思っている。

このことは、5/6のトークショーで福嶋亮太が、作品だけでなくコンテキストを含めて立ち上げているという意味で、『神話が考える』はコンセプチュアルアートだ、と述べていたこととも通底することだと思っている。

つまり、批評はそれ自身、一種の作品≒物語としての強さを持たないと、そもそも読み物として立ち上がらない、ということだ。それは、福嶋の「批評にはツイストが必要だ」という言葉にも表れている。

批評は、自らが読まれるコンテキストをも同時に支持しなければならない。人々の印象を整理集約させたような、その意味で現状の社会状況のミクロコスモスが反映されたとするようなものではもう通用しない。むしろ、人々の意識の半歩先、一歩先を(嘘でもいいから)導くようなものでなければならない。そして、人々の意識の向かう先を先回りして水路づけるという点で、それは小説的で虚構的なものに近くなる。さらにいえば思弁的フレーバーも増えることになる。

*

ということで、Q3は従来の村上春樹産業が紡いできた常套句を禁則にする作品だと思っている。これに対して、いわゆる文芸批評の人たちがどう対処してくるかは楽しみなところだ。

(そして、この点で『新潮』6月号に掲載された安藤礼二による『1Q84』評は興味深いと思っている)。

さて、この話とは別に、Q3について気になったのは、Q3の中身と言うよりも、Q3が受け止められる環境の方についてのものだ。

これは、トークショーの時にも触れたことだが、Q3が、Q1+Q2との間に刊行時期の時差があったことは、それだけでとても面白いと思っている。あたかもアメリカのテレビドラマシリーズ、たとえば『24』や『LOST』でいうところの、シーズン2がQ3で始まったように思えたからだ。

それは、端的に、Q2の最後の場面で、ピストル自殺するとばかり思われていた青豆が、Q3の冒頭であっさり、それも自発的な意志でその自殺を取りやめてしまった、という、だらしない繋がり方(笑)によっている。なーんだ、やっぱり、ジャック・バウアー生きてたか!、という感じのお決まり感。いや、もちろん、主人公が死んでしまったらそもそも話が進まないので、これは当然の措置といえば措置なのだが、しかし、これは、Q1+Q2とQ3の間に、刊行時差があればこそ、成立する物語的手法、というか、シリーズ構成法(笑)なわけで、これは、とても今日的にみえる。

つまり、時差の間には、上に記したように多くのQ1+Q2評が溢れるわけで、その存在が、Q3をシーズン2にも、あるいは、二次創作にも見させてしまう効果がある。sequel(続編)にもderivative(二次創作)にも感じさせてしまうし、当然、そうすると、spin-off(派生別物語)の可能性すら想像してしまう。

こういう『1Q84』を起点にしたマルチ展開が自然と想像されてしまうのは面白い。小説の読まれ方として実は新しいのではないかと思う。ウェブを含めた間テキスト性の網を十分に意識した刊行の仕方として。

*

今日的環境、という点でもう一つ。当然、『1Q84』は、もはや最初から諸外国語に翻訳され、流通させられることが容易に予期されるので、刊行当初から「世界文学」としての位置づけもされてしまう。このことも見逃せない。

その国際的な流通性の確保=国際的なわかりやすさ、という点でジョージ・オーウェルの二次創作のようなタイトルを付けたのだろうし、その素材として、ともすれば外国ではほとんど知られていない日本の1984年という、バブル経済突入直前の時代を取り上げているのも当たり前のことながら、様々な想像力を喚起する。

不動産バブルの影はQ1の頃から既に語られているし、作中重要な役割を果たすエヌエチケーは個々人の生活に戸別訪問しあわよくば侵入しようとしてくる国家的存在の隠喩ともとれる。

もしもQ4が書かれるならば、それは、時代設定的には1985年のパラレルワールドになるはずであり、その年は、プラザ合意がなされた年。先進国の合意によって、円高が急激に起こる世界で、その数年間の富の集約は端的に東京の景色を変えてしまった。その変えてしまった世界の後に今の日本の都市風景、生活風景があるわけだから、この点で『1Q84』が直近の日本の歴史を諸外国の人々に振り替えさせる良い機会となる可能性もある。当然、一昨年のリーマンショックを踏まえれば、不動産バブルというシステム的暴力は、世界中の知的読者が関心をよせるテーマで、その点からの『1Q84』読解も当然あり得るだろう。

そう考えると、広い意味で『1Q84』という物語は、村上春樹がエルサレム賞受賞講演として触れた「システムとたまご」の話の具現化ともとれる。

おそらく、Q4では、天吾=「天≒世界は吾なり」と、青豆=「青い豆のように何かを生み出す」、という名前が、文字どおり、物語を動かすのだろう。気になるのは、二人が同調し続けるのかどうか。何せ、片方は物語のマスターで、もう片方は物語内で何かを生み出すわけだから。

*

最後に、もう一つだけ手短に。

村上春樹は『海辺のカフカ』を発表後、ウェブサイトで読者からメールを受け付け、それに対して返信するという作業をしていた。その記録は『少年カフカ』として書籍にもまとめられている。これを読むと、いかに読者という存在が勝手に物語を読んでしまうかがよくわかる。村上春樹はよくこんなことをしたものだと感心しないではいられない。常々、村上は、自作の批評は読まないと公言しているが、その彼が、読者の声に、それとわかる形で応えようとしたのがこのウェブサイトの試みだった。

この試みが、その後の彼の作品にも影響を与えたのではないかと思っている。つまり、『1Q84』はこの試みを大なり小なり反映・反省した上で書かれたものではないか。この過程で巷に溢れる村上春樹評の更新が必要だと感じたのではないかと思っている。なぜなら、『少年カフカ』に掲載された読者からのメールを見ると、思いの外、紋切り型の、その意味でどこかの評論家が書いたことの引き写しのような評や質問が散見されたからだ。読者と作者である自分との間に存在するもの(その代表が批評・書評文)を一端更新する作業を、それとわからずに自然と行ってしまう。そのことを『1Q84』は実は第一に行おうとしたのではないか。その意味で、『1Q84』は実は、村上が執筆開始当時から触れてきた、日本的な文学環境に対する、2010年代の挑戦であったのでないだろうか。この点で村上春樹は一貫している。

エルサレム賞講演の冒頭で、村上は「嘘語り」する存在として作家である自分を位置づけている。そして、作家のみが大きな嘘をつくことで賞賛される特権的な存在だということにも。

『1Q84』もそうした大嘘として真面目に受け止めつつ笑い飛ばすべし。

村上は既にその読み方をも指示してくれている。

だから、『1Q84』もコンセプチュアルアートなのだ。