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Zittrain, 「インターネットの自由」からiPadにかみつく。

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ジョナサン・ジットレイン(Jonathan Zittrain)がiPadについて「自由」という観点から論評している。

A fight over freedom at Apple’s core
【Financial Times: February 3, 2010】

ジットレインは『インターネットが消える日』の著者で、現在はHarvard Law Schoolの教授。インターネットにおける「自由」について、その維持がインターネットの成長にとっても人類にとっても不可欠である、という観点から一貫して論陣をはってきた。

上の論考の主旨も基本的にはその路線。

AppleのJobsは、Apple IIで自ら切り開いたPersonal computerという商品カテゴリーを、iPadで終演させようとしている、と見た上で、iPadが、Apple IIのように外部のソフトウェア会社が自由にソフトウェアを書くことができる環境を選択するのか、それとも、iPhoneのようにApp Storeへの登録過程を通じて、実質的にiPhone上のアプリケーションの生殺与奪の権利を握るのか、どちらを選択するのか、と問うている。

もちろん、インターネットの自由を、その「生成性(generativity)」にとって不可欠と考えるジットレインは、前者、すなわち、Apple IIの時代に戻ることを希望している。

生成性というのは、ユーザーが自由自在にインターネット上にある道具≒各種ソフトウェアを利用できることで可能になる。いわば「読み書きそろばん」のようなもの。誰もが文字や言語を使うことができる(それは習得するための学習機会の提供も含む)ことで、誰もが、文章を書いたり、口頭で発言できたり、という具合に、表現の機会をもつことができる。

この観点から、ジットレインは、iPhoneの管理志向をよしとしていない。そして、iPadがiPhoneのようになることも望まない。

*

だが、iPadの場合は、もしかしたらApp Storeのような管理権限をもつことが、最終的には生成性をむしろもたらすことにつながるのではないかとも思っている。つまり、iPadで監督権限を持つことは戦略的には必要だということ。

というのも、iPadの場合、その利用形態の相当部分を、新聞、雑誌、書籍、そして、テレビ、映画、などの、従来からあるメディア・コンテントの視聴に当てられることになりそうだから。

現行のメディア・コンテントを提供する企業は、おおむね老舗企業。つまり、業界構造は古いし、プレイヤーも固定されている。そうした企業に対して、完全に自由な状況を与えてしまったならば、従来のメディア・コンテント企業の論理のまま、つまり、供給者側のビジネスロジックがそのまま移転されることになってしまうだろう。

だから、Appleが仲介者としての権限(ジットレインはgatekeeperと呼んでいる)をもつことで、Appleはユーザー側の利益を代弁する役割を演じることができるかもしれない。ちょうどAmazonがKindleで出版業界に取った立場のように。

もちろん、AmazonやAppleの態度は、従来のメディア・コンテント企業からすると不愉快きわまりないことだろう。なぜなら、プライシングという聖域に外部の企業が圧力をかけてくるわけだから。

けれども、もしも、メディア・コンテント企業がそのプライシングについて柔軟な対応をすることをユーザーの意見を取り込みながら行うような回路をもっていさえすれば、わざわざAmazonやAppleにユーザーの代理人の立場を取らせることはなかったのではないかと思う。

だから、ここで大事なことは、従来のメディア・コンテント企業は、少なくともマーケティングセクションの担当者の間では、ユーザーの意向を、コンテントの企画からプライシングまできちんと吸い上げる回路を用意することだ。そうすることで、メディア・コンテントの消費というのが、実は、制作者と鑑賞者で成立する一種の共同体から成立していることがわかると思う。

このシンプルな事実にメディア・コンテント企業の経営に携わる人たちが既に気づいているならば、ジットレインのいうように、AppleはiPadをApple II同様、完全オープンにすべきだろう。

だが、実際はそうではない。しばしば本が(大量に売れさえすれば)お札を刷っているのと同じようなものだ、と言われるのは、裏返すと購入者=読者に対して還元する機会を見誤っている、ともいえる(実際は、そこでの過大な収益が、売れない部分の収益を補填する役割を担うわけだが。この点は映画も同じこと)。

だから、ジットレインの期待する「自由なインターネット」を実現するためにこそ、むしろ、gatekeeperが寡占の進んだ産業に対峙する「自由」を認めてやってもいいのだと思う。

とりわけ、iPadについては、Appleは自前のCPUチップを精算する選択までしたわけだから、いわば不退転の決意を対外的に示したことになる。その不退転の決意は、Appleのステイクホルダーたちにきちんと伝わる。Appleが本気であることが伝われば、普及に対しては本気になる。

ジットレインは、同じテキスト列であっても、ソフトウェアのコードを書くことと、本を書くことあるいは映像を作ること、とが、ウェブ化に向かうにあたって当初のコンディションが全く異なることに気づいてもいいと思う。それこそ、iPadが首尾良く普及した暁に、そうした「自由」に関する問題点を再度指摘すればいい。

求める自由は同じかもしれないか、そこへのアプローチは、「何の自由」の「何」の部分に大きく依存する。その意味で、iPadを巡るAppleとメディア・コンテント企業とのやりとりが、しばらくは注目すべきことだろう。iPodという前例がある以上、当の従来メディア自身が、この話題に多大な関心を示すのは想像に難くない。

iPadは、インターネットの自由について具体的に思考を巡らす機会を与えてくれることになる。