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ちょうど前田塁の『紙の本が亡びるとき?』を読んでいたり、あるいは、平野啓一郎と東浩紀の対談を読んでいたときでもあって、今回の「芥川賞該当作なし」は、「親の心子知らず」ならぬ「子の心親知らず」と思わないではいられないくらい、タイミングが悪いことだと感じた。
(平野の対談はこれ:
情報革命期の純文学
東浩紀+平野啓一郎 (「新潮」2010年1月号より転載)
)
というのも、平野にしても前田にしても、今ある制度としての(純)文学の側になんとかとどまりながら、文学の置かれている窮状からの脱出を試みようとしているのだが(そのことは前田の本や平野の対談を読むとわかる)、
にもかかわらず、今回の芥川賞選考委員であった池澤夏樹による説明が、作家の側に「どうしても、という(偏)愛や強いものがなかったから」というのだから、その温度差を感じずにはいられない。
(池澤夏樹のコメントなどについては、Google Newsあたりで「芥川賞」で検索してみて下さい。)
もちろん、芥川賞に全てを委ねる必要はない。あるいは、大森望や豊崎由美の「メッタ斬り!」コンビによる「選者問題」の指摘にあるように、先行した成功者としての作家が、後続新人の選者になるシステムそのものの是非を問う必要もあるのだろうが。
ただ、これでは、平野も、前田も、うかばれないな、と思ってしまう。
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前田は『紙の本が亡びるとき?』の第二章「知の臨界時計」で、今日の、ウェブ的な「テキストへの接触」状態について、「極めて人文的な道具立て」で、彼なりの見通しを述べている。
それは、主に三つの道具からなっていて:
●フーコー:『知の考古学』
Google/Wikipedia的なウェブ装置によって、永遠に縁取りできない「無限の拡散傾向を要する」テキストを産み出す状況を、フーコー『知の考古学』を援用しながら説明し(むしろ、フーコーが指摘した状況がGoogle/Wikipediaによってベタに実現されてしまったと指摘し)、
●アンダーソン『想像の共同体』
ついで、縁取りが固定されたメディア=書籍≒文学、について、アンダーソン『想像の共同体』を引きながら、「小説という結構=線形な、前から順に読み、最後にある終着点に到達する枠組み」の効果を論じて、「自己の中に他者」を見いだす契機を見いだすことに、文学・小説の役割がある、とし、
●ダンカン・ワッツ『スモールワールド・ネットワーク(原題“Six Degrees”)』
最後に、一転してウェブ社会学者であるワッツの『スモールワールド・ネットワーク』を参考にしている。非線形なウェブがもつ「雪崩現象(カスケード)」のような特徴によって、文学に内在する価値とは別のメカニズムでブームが生じうる、ことを指摘している。
詳細は前田の本にあたってほしいが、前田の論述のスタイルはとても文学的で(しばしば蓮実重彦似といわれる)、道具立ても、できるだけ「人文的な」ものを利用する(ここではフーコーやアンダーセン)ことで、人文畑の人たちも入りやすい「登り口」を示しながら、その途上で、ウェブの現実について記している。
つまり、前田は、文学や出版に関わる人たちに対して、できるだけ説得的になるように、最大限配慮した上で、立論し記述している。
ウェブの状況がわかっている立場からすると、文体も論述も迂遠に見えて、正直なところ、文学畑の人は同業者の説得が大変だな、と感じていた。
とはいえ、今回の芥川賞の選考結果を見ると、文学関係の内部にいながら「読者の読書のあり方が変わってしまう(しまった)こと」に対応していこう、そのために変革していこうとするのがいかに大変なことか、逆にわかってしまったように思う(そして、前田がいかに真剣にそのことを捉えているか、ということも)。
なぜなら、今回の芥川賞選考において、報道された内容から見るに、たとえば、大森兄弟の「共作」というあり方や、舞城王太郎の「表現」に対する抵抗感、などが、選から漏れる理由として挙がっているから。
どちらも、ウェブに触れている人たちからすれば、どうしてそんなところが引っかかるのかが逆にわからない、と感じてもおかしくないところ。
ちょうど、エスカルゴを初めて食卓に出されて、「かたつむりなんて気持ち悪くて食べられない」と言っているようなもののように思えてしまう。
そして、単純に「食わず嫌い」のような発言に見える分、ウェブと文学というのは、ある層の作家にとっては鬼門なんだな、と感じないではいられない。
いや、エスカルゴ、食べてみれば結構おいしいよ、といいたいところ。
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もっとも、「食わず嫌い」と取られてもおかしくないことを公言して憚らないくらい、芥川賞の選者からすると、「日本」文学の「日本性」についての危機感があるのかもしれない。
ただ、それは、読者には伝わらない。
それに、平野啓一郎が東浩紀との対談で述べていること、つまり(純)文学の外部へのアクセスのための足がかりを作るために平野が『ドーン』で試みたこと、を踏まえると、小説家の中にも独自に戦線を展開しようとしている人がいることがわかる。
『ドーン』は未読なので、平野の企みがどういうものかまだ判断できないのだが、「文学の読者の状況」に関する彼の認識はそのまま納得できるもの。たとえば:
読者が最も頻繁に触れる日本語テキストがウェブを通じてのものであること。たとえ紙に書かれた日本語テキストであっても、ウェブ接触の痕跡がわかるものになっていること、
あるいは、
映像作品(映画やテレビドラマ、アニメ、ゲームなど)を含めて「メディアミックス」的接触が当たり前になっていること。
こういった状況を踏まえて、いかにして文学作品の読者を増やしていくのか、というのが、平野が抱える課題になっている。どうやって、複数の間口を用意して、読者を呼び込んでいくのか、という課題。
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専業作家が経済的に自立する、という点では、確かに、映像化という道は無視できない。ただ、従来イメージの「作家性」や「文学性」の観点からすると、必要条件だが十分条件ではない、という意見が出てくるのもわかる。
このあたりの、作家の側の衒いや逡巡については、西尾維新が『難民探偵』の中で記している。たとえば、『難民探偵』の作中人物の一人である「作家」の描写として、映像化(映画化やアニメ化)されると「現金で家が買える」と、なかば自嘲的に記している。
西尾の『難民探偵』は面白い。いろいろな意味で「今日性」に照準した書き方やプロット作りになっていて、ちょっとした「現在文学事情批評」としても読める。パロディといってもよい。
(ネタバレはしないので、気になる人は直接読んでみてください)。
多分、一番のポイントは、西尾自身も、作中の途中から一人の読者として、自分が書いたものを楽しんでしまっているような、つまり、最初から作品に「二次創作」的な要素を埋め込んでしまっているところがある。
自作が一種のネタとしてウェブを中心にどう印象批評されるかまで意識した上で(その意味で、西尾自身も読者の一人、ということ)、本編を書いている。
だから、とても「コミュニケーション志向の強い」小説、になっている。
そして、こういう小説のありようは、前田が分析し、平野が打開策を考えている状況に対する、回答の一つになっているように思う。
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もちろん、人によっては、西尾維新はラノベ作家だから芥川賞とは関係ないというかもしれない(西尾がラノベ作家だというのには留保が必要だが、それはここでは置いておく)。
その場合は、逆に「芥川賞」とは何なのか、改めて選者らは、そのゴールや基準を示すべきだろう。もちろん、明文化は難しいかもしれないが、少なくとも、何を目的としているかくらいはもう少し事前に語ってもいいと思う。
多分、一番怖いのは、賞が形骸化してしまったり、仲間内のご褒美になってしまうことだから。好き勝手や無頼が文学(者)の本質、というのは、一読者の立場からすると、もはや全く信じられないことだし。
というか、文学を学んだことがなくても文学を読んで楽しむことはできるわけだから。
芥川賞とは何か、というのは脇に置いたとしても、文学=literature≒書きもの、についての理解のあり方が、読者の置かれている状況に応じて自在に変容できるようは方法論があってもいいように思う。
そういう意味では、ピューリツァー賞のように、literature≒書きものなら何でも、フィクションでもノンフィクションでも対象とする方が、ジャンルの拡大や変貌に柔軟に対応できていいのかもしれない。
いずれにしても、前田の分析にはいろいろと学ぶところがあった。今日的な「読書体験」を支えるインフラとしての、文学やウェブについてひとつ横串にする「パス(経路)」を作ってくれているところは、ウェブの側に立って考える際にもきっと役立つと思う(ただ、前田は最終的に「現行の文学の擁護」の方に回っているところが少し残念だが。東浩紀のように突き抜けてしまってもいいと思うのだが)。
平野については『ドーン』を読んだところで改めて考えてみたい。
個人的には、舞城王太郎が今後どう扱われていくのかには興味がある。