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この休みに、『クォンタム・ファミリーズ(QF)』を読んだ。
QFは、東浩紀の、単著としては初の小説。
不思議な本だ。
全編が「亡霊効果」で溢れている。
東が、覆面作家である舞城王太郎の、いわば対極にある存在だからか。
ウェブの中では東に関わる語りや言説は溢れているし、東自身、今までウェブに限らず多くのテキストを、発言や執筆によって残してきている。
その全てが、QFの文面のそこかしこで、亡霊のように浮上する。
これは、不思議な読書体験だ。
リニアな読みを前提にした、紙を前にした読書体験ではない。
あえていえば、ウェブを前にした、ブラウザを前にしたテキスト読解体験に近い。
とはいえ、ブラウザでは、「手で繰っていく」というような、手触り感や操作感はない。
だが、QFにはそれもある。リアルの書籍として。
そこが一番違和を感じるとともに、一番新しいと感じたところだった。
つまり、QFは、紙でウェブをシミュレートしている。
そして、読者の方は、その読みの体験をエミュレートしている。
普通は、小説を読むと、その本の流れにシンクロすれば、
そこから先は「没入」しながら読み進めることができる。
しかし、このQFに対しては、そういう読み方ができなかった。
どこかQFのページがうすーく浮上しているような、ページが多重化しているような感覚を、結局最後のページまで捨て去ることができなかった。
(Quantum=量子につきまとう、不確定性、非決定性、というイメージがかぶっているようにも思う。だが、読書中の感覚がある種の量子的イメージに引きずられている、というのは読後、気づいてしまったこと。だから、読後感の説明としては、論点先取的になるので、あまり望ましい説明ではないように思っている。実際に読み進めたときは、もっと、ぼうぅ、とした印象だったから)。
亡霊が憑く感覚は、形式的には、作中で示される様々な言葉、や、作中人物の語り、あるいは、彼・彼女のロジックが、どこかで、東が語ってきたものである、という既視感がついて回ったから。
あるいは、東自身が批評し、好き嫌いを明言してきた、各種作品から引用・転用があふれているから。そうした作品の連想から、東による批評的態度すら立ち上がってくる。
そういう意味で、本編の全てがどこか「ウソガタリ」である感じが拭えない。
(いや、およそ小説だからフィクション=嘘語り、であることは間違いないはずなのだけど、その一方で、私たちはフィクションをあたかもノンフィクションであるかのようにリアルに読む読み方を身につけて来ているわけで、そうした「リアリズム脳」を裏切ろうとする影がそこかしこを横切っていく感じがしていたわけだ。あたかも亡霊のように)。
随所に見られる引用・転用は既に多くのところで指摘されている。
それは、実作者と言うことであれば、フィリップ・K・ディックであり、村上春樹であり、ドストエフスキーであり、美少女ゲーム(AIRやCLANNADのようなKey制作)の作品であり、ラノベであり、西尾維新であり、舞城王太郎であり、グレッグ・イーガンであり、テッド・チャンであり、ニール・スティーブンスンであり、阿部和重であり、・・・。
学者であれば、デリダであり、ラカンであり、ハイデガーであり、ペンローズであり、カール・シュミットであり、ウィーナーであり、クリプキであり、・・・。
科学的ガジェットとしては、量子コンピュータであり、人間原理であり、並行世界であり、トンネル効果であり、複雑系であり、情報理論であり、解離であり、・・・。
あるいは、文中に込められたキーワードのようなものたち、たとえば、ベーシックインカムでも、ケイパビリティでも、ライフログでも、なんでもいいのだが、ちょうどリンクの張られたワードのように見える時がある。これらのキーワードがどこかにリンクされていて、そこから異なる物語が立ち上げられる可能性が担保されているような感覚。
これらはいずれも、東が今まで生産してきた無数のテキストの断片(+それに紐付いたさらに無数のテキストの断片の集積)があればこその感覚。
そして、その亡霊化を支えるのが、批評家として、顔見せを厭わずに行ってきたという事実。
裏返すと、彼のテキストに今まで大なり小なり触れてきていなければ、こうは感じないのかもしれないが。
いや、だから、このQF自体が、「東浩紀テクスト・データベース」から紡ぎだされた、一つの「表現型」に過ぎない、と感じさせられてしまうのはとても新鮮であった。
そういう、知識・知恵のアマルガムが、QFの屋台骨を支えていることは、小説のみならず、実作に関わっている人たち、あるいは、実作者を牽引し水路づける役割を担う人たちが気にかけておいていいことのように思う。
東自身が語ってきた、「郵便的」「データベース」「ゲーム型リアリズム」・・・、といった鍵概念を提唱者自身が愚直に実践してみせたのがQFというわけだ。
つまり:
「データベース型消費」のフレームを作り手にとってのアーキテクチャとして読み替え、
(このあたりは、Zittrainのgenerativity(生成性)からの視点転換)
「ゲーム的リアリズム」で「実存」の一回性へ回帰し、
「一般意志2.0」で予見される「夢想性」の浮上、
を踏まえると、視座を固定して線形に記述する批評の形式では、もはや何を書いても書き切れていない感じがしたのではないか。
その意味では、小説の体裁を取っているものの、まぎれもなくQFは「批評」だ。
空想科学小説、になぞらえれば、
夢想知識小説。
といっても、空想も夢想もイマジナリーだし、科学も知識もスキエンチア(sciencia)と捉えれば、実は同じことを言っているのだけど。
あるいは、椹木野衣になぞらえて、
「夢想・知識・小説」
あるいは、美少女成分を加味して(笑
「夢想☆知識☆小説」
という感じか。
(さすがに悪ノリしすぎか)。
そして、作中だけでなく、読書体験としても「亡霊」が随所に立ち上がってくるあたりは、間違いなく『存在論的、郵便的』の後継機(本)なのだと思う。
というか、東浩紀データベースの海から、10年前に生成されたのが『存在論的、郵便的』で、2009年に生成されたのが『QF』であったということだ。
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その一方で、ちょっとだけ引いてみて、そんな前知識なんか全くない、という気になって、つまり、自分の知識をリセットしてQFに向き合えば、むしろ、QFは、ダン・ブラウンやマイケル・クライトンのような、ウエルメイドなパルプフィクションにも見える。
時事的な問題(Current Affairs)をアカデミックな知識を活用して解決しようという大きなフレームがあって、そこに物語的想像力が移植されたような感じ。
それは、村上春樹的なもの、が全編に憑いているQFでは当然の印象なのかもしれないが。
確か仲俣暁生が以前言っていたと思うのだが、「青春=探偵文学」的要素が村上春樹やポール・オースターにはあるとすれば、それは、件の「35歳問題」とあわせれば、一種の成長物語の部分がQFにもあるはずだから(このあたりは未読の人は意味不明だと思いますが)。
実際、読み始めたときは、むしろ、そんな印象だった。
これ、クライトンっぽいな、と。
社会的なリアルを足がかりにしながら、徐々に転調していく様が。
もちろん、クライトンと違うのは、転調しても素直にフィクションというリアルに導いてくれないところ。
読み進めるにしたがって、どんどん亡霊が立ち上がってきては、没入を阻止し、どこかで、QFを読む自分を冷静かつクリティカルに眺める自分が立ち上がっていた。
見事にセカンド・オーダーの観察者が立ち上がってしまっていた。
つまりは「プレイヤー視点」ということで。
その意味で、QFはウソガタリだという印象が強い。
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QFについては、他の普通の小説同様、様々な読み方が可能だと思う。
個人的体験に照らしてみたり、
蘊蓄的な要素をひもといてみたり、
小説的結構の善し悪しを指摘してみたり、
科学的ガジェットの妥当性を論じてみたり、
という具合に。
私としては、同時代の批評家、つまり、社会に対して自ら何かを発している人物が、小説という形を、その表現のためのヴィークルに選んだ、という事実と、そこから得られる効果(=読書体験)が新鮮だった。
細かいところもいろいろと書いてみたいところだが、まずは、一番の大枠的な印象を書いてみた。
もちろん、内容的にも、「素材はカレントだけど中身は普遍」という時事批評性があるところが、QFの面白いところだと思うのだけど、それはQFの直接の読書体験というよりは、ネタ的読解になると思うので、また別の機会にでも。
まずは、QFの仕掛けが面白かったということで。
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しかし、ここまで書いてみて、改めて感じるのは、このように「亡霊的」なものを感じている、という感覚自体が、データベース的消費≒アーキテクチャ的生産、の枠組みの中に自分自身どっぷり浸かっているからではないか、その枠組みの効果として上のように感じているのに過ぎないのではないか、と反省的に感じてしまうところ。
何かすっきりさせない、厄介な成分をQFは持っている。
このことだけはどうやら確かなようだ。