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来月の大統領就任式の宣誓には、リンカーンが使った聖書をオバマは使うようだ。どうやら、オバマは、リンカーンの神話を最大限活用しながら、就任後の難局を乗り越えていこうとしているのだろう。それは、そうすることで、人々の「不安」をできるだけ押さえて、前向きに進もうというメッセージでもあると思う。
ところで、ちょっとアメリカのことから離れるが、大事なことだから書いておく。
日本では、足下の状況を、「景気」という、何らかの「気配」を感じさせる言葉を使って伝えている。その結果、なんだか底知れない「不安」が漂っているような伝えられ方がされている。一方、英語の場合、表現としては「経済活動の危機=economic crisis」というように、対象をしっかり足下の「経済活動」として客体化してとらえていて、そこには「気配」のような漠たるイメージを伴うニュアンスはない。
(そもそも、不況=リセッションに入ったという判断自体が、確か四半期で連続して総生産が前四半期を下回る場合、というように一定の尺度を予め設けておいて機械的に行われている。その意味で、状況判断自体がそもそも「客観的」。アメリカのメディアでも、日本のメディア同様、報道番組や討論番組では、アンカーが執拗に「もう不況になったのではないか?」と煽るような質問を、議員や政策担当者に浴びせることがあるが、まずは、データに基づいて回答するのが常。)。
もちろん、先行きの不安、見通しの暗さ、が、今後の経済活動に重要な影響を及ぼすことは間違いないことだが、そうした人々の不安要素については別の言葉が用意されている。「confidence=確信・自信」というのがそれだ。しかも、この言葉は、経済活動の担い手ごとに、たとえば、「consumer confidence」や「investor confidence」のように具体化され、かつ、経済活動同様、数値化されて報道される。尺度として「confidence=確信」という肯定的なニュアンスを伴う言葉を利用することで、「どんなに不安なのか」なのではなく、「どれくらい自信が喪失しているか」、という、ポジティブな枠組みで状況が認識されていることも、細かいことだが重要なことだ。
現在、日本のマスメディアが連日行っている「景気」に関する報道は、単純に人々の間で必要以上の「不安」を蔓延させ、それによってますます今後の見通しを悪くさせてしまうのではないか。そう思う時が最近頻繁にある。もちろん、足下の不況が、実際「不安」なことは間違いない。それは、今回の「不安」の出所が、90年代初頭のバブル崩壊の時と違って日本国内の経済問題だけに起因したものでないからだ。アメリカの経済活動の低迷、それに伴う為替レートの変動(ドルの低迷による円高)、円高による輸出の低下、というように、問題の出所が日本の外で起こったことだからだ。だから、アメリカが、あるいは、他の国が、何かをしてくれないことには完治はしない、その意味では、日本単独で行えることには限界がある。そういう性格の問題だ。
その一方で、これが日本でも「百年に一度」の景気後退、なのかというと、それは私にはわからない(今の政府の対応を見ていると少なくともそうした切実さは見受けられない)。はっきりしていることは、この「百年に一度」という言葉は、どうやらアメリカの現状認識を流用したものだということだ。「百年に一度」という形容は、アメリカでは明らかに1929年の金融恐慌→大恐慌、を連想して使われているが、ただ、アメリカの場合、これは同時に、FDRのような、あるいは、ニューディールのような政策転換が必要だというための、つまり、「認識転換」「政策転換」が必要だ、と訴えるための(あえていえば「前口上」的な)形容の仕方にすぎない。つまり、修辞法に過ぎない。実際、大統領選以前の段階で、主にデモクラット系の経済学者(かつadvocate)である、クルーグマン、ライシュ、ステイグリッツあたりからは、アメリカ国内の収入格差の問題や、借金漬け消費のあり方について警鐘がならされていた。
つまり、アメリカの場合、いたずらに「不安」を蔓延させるために、「百年に一度」という形容をしているのではなく、その先に見込まれる「対策の所在」まで見越した上での伝えられ方になっている、ということだ。
そして、ここで冒頭の、オバマとリンカーンの聖書、になる。
上述のように、アメリカの経済状態は確かに悪い。そして、この状況を突破するための強いリーダーシップを発揮する人物として、オバマ次期大統領は多大な期待を寄せられている。そうした「期待値の高い」次期大統領を形容する仕方として、過去の著名な大統領が参照されてきた。前回の大恐慌とそれに付随して発生したといわれる第二次大戦の中でアメリカの舵取りについたFDRはその筆頭。あるいは、大統領選における多くの人々の動員、とりわけ若年層の政治意識の高揚とその支持を受けて大統領に選ばれ、アメリカの政治の形態をリパブリックからデモクラシーに切り替え、「ジャクソニアン・デモクラシー」という言葉を残したアンドリュー・ジャクソン。そして、南北戦争を乗り切り、国が二分される(さらには四分五裂する?)危機を救い、その後のアメリカ合衆国の発展の礎を用意したエイブラハム・リンカーン。
こうした歴代の大統領の中で、どうやら、オバマは、リンカーンの大統領としての物語=神話を活用しながら、この先の難局を乗り切っていこうとするようだ。つまり、オバマが第一に求めるのは、リンカーンが成し遂げた最大の偉業である、アメリカの「unite=結束」や「solidarity=連帯」にあるということだ。それに比べると、FDRの行ったニューディールのような部分は、その道の専門家に任せ、プラグマティックな処方箋を講じていけばよい、という認識なのだと思う。
すでに、各省の長官候補の公表のなかで明らかにされているように、オバマは、リンカーンが取った“Team of rivals”の方法を活用する、つまり、自分と敵対したものをむしろ側近に登用することで、事前に外敵の不安を(この不安は、大統領本人の不安だけでなく、彼を取り巻く人々、ひいては有権者が抱く不安、でもある)なくしてしまう方策。具体的には、大統領予備選を争ったヒラリーやリチャードソンをそれぞれ国務省長官、商務省長官、の候補として指名したり、GOPからの登用も行うことで、超党派のcabinetを作ろうとしているところにも現れている。
リンカーンにあやかるという点では、就任式に向けては、リンカーン同様、イリノイから列車を使い、沿線で、折に触れ遊説しながら、DC入りする計画も公表されている。今回の聖書の利用も、リンカーン神話が人々の中に呼び起こす想像力を最大限活用していこうというものだと思う。
そして、ここから、先に述べた「不安」の話につながるが、こうしてリンカーンの神話のベンチマークすることで、無用な不安を取り除き、少なくとも期待のレベル=想像のレベルでは、アメリカ人が自信=confidenceを失わないようにしよう、というのが、オバマ陣営の、今後のコミュニケーション戦略の中核になるのだと思われる。以前にも書いたが、cabinet memberの発表を、足下の危機への対応から、今後の新たな対応、へと、順々に進んでいくことで、期待の方向をうまく整序していくことに最大の努力を図っている。こうしたコミュニケーション上の仕込みには随分と感心させられる。
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最後に、日本の場合、いたづらに「不安」を蔓延させるだけではないのか、というのは、上述のような、その先の対策が見えないからだ(「ショック・ドクトリン」のナオミ・クラインだったら、不安とセットになった落としどころがないところに、むしろ喜んでしまうのかもしれないけれど)。
日本の場合、アメリカの消費者のようには、借金で消費をしてきているわけではないのだから、いたずらに「不安」を連呼することで、本来の消費を控えさせてしまうことは端的に上手くない。あるいは、足下の「経済対策」が打ち出されないままに、均衡財政やそのための増税を語ってしまうのは、人々の「期待」を損なうので正直あり得ない話だと思う。たとえば、減税という方向をまず決め、実際に減税をした上で、将来増税の可能性を臭わせれば将来の消費を現在に引き寄せることで、現在の経済状況の中でもマネーが循環することになる。わたしは、「景気」の専門家ではないから、もちろん、これは単なるアイデアでしかないが、しかし、こうした「期待」を整序することで、「無用な出血」を止めることも出来るはずだからだ。
もちろん、コミュニケーションがただ人心の操作に徹するだけではいけないことは確かだろう。また、コミュニケーションだけで人心が操作されると期待することは大きな間違いだろう。だが、コミュニケーションが無力ではないことも確かだと思う(むしろ、人に何らかの形で働きかけないコミュニケーションなど想像できないのが実感)。こうした点で、今のアメリカの、とりわけ、オバマ陣営と、それを受け止めるアメリカのメディアの状況からは、学べることは多いと思う。