148
148
The extinction of mass culture
【July 12 2006: Fortune】
多チャンネルやインターネットがでてきて、マス文化がなくなる、政治的にも大変だ、というFortuneの記事。
*****
この手の話は昔からある。
なぜ、この記事をとりあげたかというと、某所で、アメリカのネット系の動きを紹介(称賛?)するサイトで、この記事の引用を見つけたから。
○メディアの分散化が政治、国家の紐帯関係に影響を及ぼす、というのは、アメリカ人でジャーナリストの教育を受けた人たちが、必ず言ってしまうこと。日本と違って、ジャーナリストは新聞社社員のことをさす訳ではないから、勢い、ジャーナリズムの価値、というのが前景化する。
どこかの記事で、梅田望夫氏が「朝日新聞は朝日新聞の社員しか記事を書かない」、だからモノカルチャー、だというようなことを発言していたけど、その通り。アメリカでは、フリーのジャーナリストが多数て、しかも、新聞、雑誌、関係なく「自分の分野」の記事を書き続ける人が一定数いる。
その彼らの生活の基盤は、(経済的にも、信念的にも)自ら書いたものが社会を動かす、あるいは、社会のためになる、ということで、このことを素朴に信じている。だから、マスメディアの崩壊、は彼らにとっては御法度。
○Fortuneの記事だということ。上級ビジネス職である(もしくは目指す)人向けの記事では、必ず、ビジネスと政治が交叉する話を展開する。それは、ビジネスの成功者が次に目指すのが政府の要職だから。また、一部のビジネスエリートは、まじめにそうしたことも考えている。
日本と異なり、徹底的に、政治というか公共に関わることが成功者のゴールにあるため。もちろん、動機は崇高なものからさもしいまで様々だが、40代で大企業の経営トップ、50代で政府要職へ転出、というがの、一種のキャリアステップとして用意されている。
・・・・
裏返すと、「アメリカでマス文化がなくなる」ということで、日本人が、しかも、コミュニケーションに関わる広告・メディア関係者が右往左往するな、といいたい。
彼らは、マス文化の想像的紐帯がなくなれば連邦として崩壊しかねない危うさをもっている。その重さは、外交の文脈ですら平然と「ホモジニアスな日本」といわれてしまうこの国では、実感できないくらいの水準のもの。
さらに、裏返すと、メディアがこれほどまで商業・広告の文脈でしか語られないのは、日本が平和な証拠、ということになる。
このテーマ、改めて考えることにする。