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Kate Spadeの訃報に触れて思ったこと

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90年代後半にファション・デザイナーとして一世を風靡したケイト・スペードが亡くなった。享年55歳。

Kate Spade, Whose Handbags Carried Women Into Adulthood, Is Dead at 55
【New York Times: June 5, 2018】

といっても、どうやら自殺のようで、報道する媒体にもよるが、マンハッタンのアパートで首を吊って亡くなっていたのが発見されたようだ。

もっともこのニュースにちょっと触れてみたいと思ったのは、死因が自殺だったから、というようなことではなく、訃報のニュースを見るうちに、あれ、ケイト・スペードってニューヨーク近郊の出身ではなかったんだ、と気づいたことだった。

ケイト・スペードは90年代後半に、ポーチなりバックなりのかたちで、とにかく働く若い女性用の小物=アクセサリをデザインしたことで、一気に注目を集めた。今回の訃報に即座に反応し追悼の言葉をTwitterなどで公表したのが、チェルシー・クリントンやイヴァンカ・トランプであったあたりに、その時代感が現れている。

では、どうしてケイト・スペードはそのようなアクセサリをデザインしたかというと、85年にNYにやってきた彼女が気づいたことは、たとえばバックといっても欧州風の華美で古風なスタイルのものばかりで、およそ実用的とはいがたいものだったことだ。ハリソン・フォードやシガニー・ウィーバーが出演した『ワーキング・ガール』が公開されたのが88年であったように、当時少しずつ認知されるようになってきた「キャリア・ウーマン」と呼ばれる働く女性にとっては、使いにくいアクセサリばかりだった。

少なくともみずからNYで、ファッション誌の編集という仕事に従事していたケイト・スペードにはそう見えていた。そこで、使いやすいものがないのなら自分でつくってしまえ、と考え、実際にデザインをしてしまったわけだ。

実はこのあたりが、今回の訃報にまとめられた彼女の個人史を見ていて興味深いと思った理由だった。まずはとにかく「気に入るものがないなら、自分でつくってしまえ」という、一種の反骨心から始まっていたこと。とはいえ、デザインの教育を受けたことがない彼女がデザイナーのようなことができてしまった背景には、ラフのイメージを描いたり、モックアップ的なものをつくってみたりしたところで、それらを見て、実際に商品のプロトタイプを製作してしまえる「服飾加工インフラ」がNY近郊に十分存在していたこと。ついでにいえば、それら製造業へのアクセスを、おそらくは雑誌編集で得たネットワークで探し当てることができたこと。つまり、どちらにしてもNYという「ファッションの街」のインフラを活用することで実現できてしまったわけだ。

この創業時、というか今風に言えばスタータップを立ち上げたところが面白いのは、そんなふうに振る舞ったケイト・スペードの出身が、“The Heart of America(アメリカの心臓=中心)”と呼ばれることで知られる中西部はミズーリ州のカンザスシティであり、その上で彼女がジャーナリズムを学んだのは、さらに西方のメキシコと国境を有するアリゾナ州のArizona State Universityであったことだ。

要するに、マンハッタンの働く女性の行動に即したアクセサリを生み出した精神は、アメリカ中西部ないしは西部の文化習慣から生まれたものだった、ということだ。これは、90年代のアメリカが、70年代から80年代にかけて失っていた自信を取り戻していた時代であったこととも微妙に呼応している。言ってしまえば、生活保守的なメンタリティであり、中西部(から西方)の人びとが持つ「我らこそがアメリカ人だ」という、ある種のナショナルな感覚、さらに言えば「自信」から発したものであるように思えるからだ。そもそもそんな「アメリカの心臓」からわざわざNYまで出て来ている時点で、NYに何らかの幻想を重ねていることは間違いない。その上で、しかし、実際にやってきてみると、何か違う、いまだに欧州趣味に偏っているのはなぜ?、・・・、というような印象をもったのではないだろうか。

そのような「これは違う」という感覚が、働く女性にとって使いやすく機能的で、でもきちんとファショナブルなカバンを生み出した。そして、この「これじゃない」というある種の憤りから発したアイデアが、具体的なプロダクトの形になるような製造インフラがあった。さらにいえば、そんな田舎からNYに出てきた女性の情念から生じた具体的な商品を、チェルシーやイヴァンカのような本物のお嬢様たちも「欲しかったはこれだ!」とばかりに飛びつき、一つの時代のスタイルにまで高められてしまった。NYの働く女性は、職場までスニーカーで通勤し、会社に着いたらおもむろにハイヒールなりパンプスなりに履き替える、ということが伝えられ、同時期にはそんな女性たちの生態をカリカチュアライズしたドラマ“Sex and the City”も放映されていた。だから、確かに、ケイト・スペードの作品は、90年代アメリカの文化の基層を生み出していたのだと思う。

そうしたケイト・スペードの姿は、ココ・シャネルの姿とも重ねられるように思える。ココ・シャネルといえば、創業間もない1910年代に、ジャージ素材を扱ったドレスが有名だが、彼女はそれによって、それ以前にあった(コルセットを使ってまで)「服に身体を合わせる」スタイルに代わり、「服のほうが身体に合わせる」スタイルへと、デザインする際の考え方を180度変えてしまった。ケイト・スペードが行ったことは、このシャネルの行ったことに近いように思える。

面白いことに、ケイト・スペードが、ファションの街NYではなく中西部の田舎の出身であったように、ココ・シャネルも、当時のファッションの中心であったパリではなく、フランス西部の出身だった。言ってしまえば田舎娘がともに上京し、その地で自分が都会に抱いていた「自由」を現実のものにするスタイルを生み出した。そんなふうに見えてくる。安易な一般化は控えるべきだが、スタイルの革新には、こうした「理想と現実」のギャップに苛まされた人の情念のようなものが必要なのかもしれない。もちろん、タイミングも、すなわち、機が熟していたことも重要な要素になるのだろうが。

こんなことを、ケイト・スペードの追悼記事を読みながら考えていた。