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宿題にしていた『シェイプ・オブ・ウォーター』を観てきた。
監督のギレルモ・デル・トロは、『パシフィック・リム』を監督した際、日本の怪獣、それも円谷プロの怪獣への熱烈な愛を表明していたのだけれど、今回は、あー、この人はジブリも好きだったんだなぁ、というのが開始直後の印象だった。
実際、映画としての雰囲気は、『ポニョ』と『ニュー・シネマ・パラダイス』と『ET』を足して3で割って、それにデル・トロ係数をかけたら、あらビックリ、なんと『ラ・ラ・ランド』になってしまった!という感じのもの。
全編に映画愛が溢れていて、いささか過剰と思えるほど映画的な引用がてんこ盛りであり、怪物もの、というゴシック的な雰囲気とも相まって、画面から無意識のうちに受ける情報量は多く、意外と脳が疲れる映画でもあった。
良くも悪くも、人魚姫のプロットを逆転させたようなプロットで、次はこうなるのだろうな、と思っていた展開が、本当にそのまま続き、その意味では、平凡なものに思えたからだ。『ニュー・シネマ・パラダイス』といったのは、あの映画と同じように、作品全体に流れる時間が妙にゆったりとしていて、なにか事件が起こるにしても、ああ、主人公とその友達たちがうまく対処するのね、という雰囲気を帯びていた。その点が、まさにジブリ的な展開だった。善悪の配置も戯画的に見えるほどはっきりしていた。
もっとも、だからこそのファンタジーなのだが。
そのため正直なところ、映画を見はじめてしばらくの間は、どうしてこの映画がオスカーを取ったのだろう?と不思議でならなかった。あまりにも凡庸だからだ。
ただ、その疑問は、最後まで見終わったところで、ああ、なるほど、これはハリウッドの人びとの隠れた願望にうまくマッチしていたからだ、ということがよくわかった。
終わってみれば、この作品は、あからさまなまでにアンタイ・トランプの映画だったからだ。
なぜなら、“Make America Great Again”で夢の時代と回顧された(公民権運動などアメリカ史の展開点となる60年代以前の)50年代のアメリカが、いかに白人男性優位の時代であったか、彼らだけが人間として扱われる抑圧的な時代だったかというのをこれでもかというほど、描いていたからだ。
そんな時代の様子を、アメリカ人の監督であれば尻込みするところを、メキシコ人のデル・トロは、こともなげに表現してしまった。だからオスカーを授与された。かつての『ハート・ロッカー』と同じように、タイムリーに時評的だったのだ。
米ソ冷戦が始まって間もなく、宇宙開発競争に向かったばかりの、おそらくは50年代における、アメリカ東海岸のボルティモアを舞台にした『シェイプ・オブ・ウォーター』の世界では、黒人、ゲイ、女性、ハンディキャッパー、そして、動物(=自分たちの言葉を通じてコミュニケーションできない生命)といった「マイノリティ」の存在は、全て白人男性によって見下され、抑圧され、搾取される対象である。クリーチャーを警棒で殴りつける様子は、動物虐待の比喩だったのである。
つまり、“Make America Great Again”という言葉がノスタルジックに回顧する50年代とは、かくも抑圧的な時代だった。Greatなんて言葉は白人男性にとって都合の良い夢であったにすぎず、そんな世界を、台頭しつつあるマイノリティであるヒスパニック/ラティーノとカウントしても構わないメキシコ人のギレルモ・デル・トロが、あっけらかんと描いてみせた。そここそが、ハリウッドがブラボーと叫んだ根底にあるものに思えてならない。
そもそも、件の半魚人たるクリーチャーがアマゾンで捕獲された存在であるということも意味深だ。彼こそは、南米=ラテンアメリカの民の象徴であり、それゆえ、映画の最後で、この作品の中で悪を体現した、警棒を使ってマイノリティの全てを侮蔑した白人男性を容赦なく殺すところなどは、おそらく南米の人びとのアメリカに対する積年の恨みの発露といったニュアンスもこめられていたのだろう。
あの躊躇のない勧善懲悪のラスト、因果応報の場面は、そのような力強さを感じた。裏返せば、それだけの決断を下せる動機がデル・トロの中にはあったということだ。
そんな映画をメキシコ人のデル・トロは、しれっとファンタジーの装いでハリウッドで作ってしまった。それをハリウッドは今年の最高傑作とした。ということは、それほどまでに、今のハリウッドは悩んでいる、というか、病んでいるということなのだろう。
そう思うと、前年の『ラ・ラ・ランド』(監督賞)と『ムーンライト』(作品賞)の両方の要素を含むのが『シェイプ・オブ・ウォーター』だったということになる。『ラ・ラ・ランド』では幻想やノスタルジアに戻って物語を紡ぐくらいしか、今の(若い)映画監督にはやれることがないこと――たとえば、それは『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』を監督したライアン・ジョンソンにも見られること――を浮き彫りにしていたし、一方、『ムーンライト』は、端的に黒人でゲイの少年を主人公に据えた時点で、マイノリティに焦点を当てる作品となっていた。
その「ノスタルジア」と「マイノリティ」の掛け算というアクロバティックな物語を、ラテンアメリカの作家らしく、マジック・リアリズム的なファンタジーに包んで、あっけらかんと紡いでしまったのが、デル・トロだった。
もっとも、そのブラックユーモアあふれる作風にこそ、ラテンアメリカ社会がマジック・リアリズムという方法を見出し育てることができた理由なのかもしれない。
チリの女性作家のイサベル・アジェンデが『精霊たちの家』で表現しようとしたものに近いというか。独裁的な政権によって、いつ、自分が認めた表現が検閲に引っかかり、発禁処分となるかわからない社会、それだけならまだしも、自らの身体、あるいは家族や知人の身体にまで具体的な危機が及ぶかもしれない不安定な社会において、批判的な表現を記すにはどうすればよいか。そこで現れるのが「幻想」ということになる。
その意味では、『シェイプ・オブ・ウォーター』の中で、冷戦初期にアメリカに潜入したソ連の工作員が登場するのは、見た目の非難の矛先を50年代のアメリカ(白人男性)社会に集中させない一種の目くらましであることは間違いないのだろうが、それだけでなく本作が、ソ連時代のロシア文学のような、抑圧的な支配者の目を常に意識したナラティブであると自己申告しているようにも思える。もっとも、ロシア人の学者は、半魚人のクリーチャーの保護に手を貸すのだから、目くらまし自体、両義的である。
もっとも、実のところデル・トロがどこまで、こうした時評性やブラックユーモアを意識していたのかは明らかにされてはおらず、それはそれで検討の余地があるのかもしれない。時評性や社会批評を意識したなら、たとえば、ティム・バートンの辛辣さやウェス・アンダーソンの不条理さが、もっと前面に出てくるように思えるのだが、デル・トロは、文字通り、ファンタジックな設定で――といっても、クリーチャーの造形は随分リアルに作り込んでいるのだが――大人向けの「ほんわりとした」寓話を生み出してしまった。
その匙加減の上手さが、まさに絶妙だったのかもしれない。もしかしたらデル・トロは天然でこんな時評性の高い作品をつくってしまったのでないか、と思わせたところが、ハリウッドの映画人の琴線に触れたのかもしれない。それとは知らぬうちに、デル・トロはハリウッドの無意識を突いていたのだ。
ともあれ、『ラ・ラ・ランド』同様、最初に見た時には凡庸で退屈な、あざとい映画にしか見えなくても、一通り見終わって作品を振り返ったところから、なんだか気になって仕方がなくなってしまう。そのような中毒性を帯びた作品であることは、どうやら間違いなさそうだ。
そのような中毒性を促す要素に、怪獣や怪人といった通俗的ネタを臆面もなく使えてしまえるところが、メキシコ人監督の「スリーアミーゴス」の中で、キュアロンやイニャリトゥとは一味違うデル・トロの魅力なのかもしれない。