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前のエントリーをまとめた後、「教養」の対象について少し考えてみたので、メモ代わりに以下に記しておくことにする。
最近の教養特集と言われるものをざっと眺めたところ、現在、世間で「教養」と呼ばれているものは、おそらく次の三種くらいが想定されているように思われる。
①必要な知識を与えてくれる本(要するに教科書)
②考えるための土台となる本(個人の知的修練のための書)
③広い視野を与えてくれる本(他者の立場を理解するための書)
①は単純に不足した学習を補うものであり、以前から「教養」といえばこういう性格のものとして扱われてきた。それが、いわゆる「ゆとり」世代の登場により、漠然と世の中に流れている知識の有無についての不安ないし不信の裏返しからか、より一般化し強調されてきているように思う。
急いで補足すると、これは「ゆとり」世代に属する人たちが実際にどうなのかということとは関係のないことで、単に制度変更の帰結として「世代=プチマクロ的状況」を特徴づけるラベルとして機能してしまっているということだ(そういう意味では「団塊」世代、「バブル」世代、などと対して変わらない)。それは「知識が欠けている」とされた若年世代からすれば、逆に自分だけその知識を補うことで一歩人よりも先んじることができる、という(安い?)自信にも繋がる(余談だが、いわゆる自己啓発本がブームになるのも、こんな「与えられなかったかもしれない」不安が空気としてあるからなのかもしれない)。
ともあれ、本来「義務教育+αで学ぶと期待されていた基礎的な知識」のインプット総量が減り、同時に「かつては所属社会集団によって付与されてきた社会的常識」の接触機会も合わせて減ることで、「共通基板となる知識」が不足しているはず、という見立てが強くなっていることは確かなのだろう。
次に②だが、これは数多ある知識をできるだけ体系的に整理して、優先順位をつけることで、可能な限り「効率的な運用」を可能にするようなもの。比喩的にいえば、高速な「グーグル検索力」を身につけるようなもの。これはこれでわかりやすいもので、なぜなら、知識は既にネット上に置かれているから、それら大量にある情報=知識をいかに効率よく取り出せるか、効果的に繋げられるか、ということを意味しているからだ。いわゆる「地頭がいい」というものに近い。
ただ、この視点に欠けているところがあるとすれば、「効率」「効果」の前段階として、身を持って「不効率」「非効果」的な状況を経験しているかどうかで、「効率」や「効果」として求める基準が変わってしまうという点だ。修練ないし学習といった直接的な体験を経ないで、本だけの知識でどこまで完結できるのか、という疑問はついてまわる。「暗黙知」という言葉に象徴されるもので、言語化・テキスト化されないものを含めて知識=教養である、という視点が欠けてしまう(裏返すと、おそらく一芸的な単科の大学院大学や、既存大学に新設された各種専門大学院は、こうした座学だけで完結するのか、という疑問に応える形で人々の関心をつなぎとめているように思われる)。
そして③だが、これは逆にそんな切り貼りの知識ばかりを都合よくいつでも呼び出せるわけもなく、必ず相手との間では、知識の「召喚力」で差が生じるわけだから、そもそもどんな流儀=思考方法や考え方の枠組み、価値観があるのかを、先に知ってしまおうというもの。メタ視点の立場。いわゆるXXイズムやYY流とよばれるものの説明本。社会的議論の場で、相手の言うことを「~~系」と仕分けることでできるだけコンパクトに効率よく議論を進めようとする方向。
本の傾向でいえば、①は基本書や辞書/事典的なもの、②はピンの立った専門書(主には実学系のもの)、③は概括的一般書(主には政治・社会系)、という感じだろうか。あくまでも「傾向」であるが。
ここ4、5年の大手書店の店頭を見れば、大体こういった傾向のものが一緒くたにされて「教養書」として扱われているように思える。「一緒くた」というのは、結局、基本書、専門書、概括書、と本の性格としては「有用性」という点ではオールジャンルに亘っているからだ。そこには、あまりステップアップの階梯は示されない。
裏返すと、昭和の頃にあった「人的修養」のための教養や、バブル時代からしばらくの間あった「知的快楽のための読書=教養」という流れは大分なりを潜めているようだ(これはいわゆる「カルチャー誌の減少・消失」と呼応していると思われる)。もちろん、選者がこれらの世代の場合は自ずからそういった傾向が選ばれた教養本の中に出てくるわけなのだが。
ちなみに、「知的快楽のための読書」というものにピンとこない若い人たちに対しては、90年代初頭に出版された『知の技法』シリーズを図書館で見ることを勧める。東大駒場の教養学部の先生方が書いた論考集のシリーズだが、いわゆるジャンル横断型の知識の使い方=「技法」が強調されている。今では珍しくもなんともないことだが、ハイカルチャーではなくマンガを取り上げてそれを現代思想で解析する、というような(当時であれば)一種のタブー破りの集大成・・・なのだが、タブーを破った後は「技法」だけが残ってしまって、2000年代以降の文化批評のスタイルとして日常化してしまった印象がある。「楽しみながら学ぶ」の一形態なのだが、その楽しみの対象が「対象」自体なのか、それとも「技法」の方なのか、わかりにくくなっている。2000年代以後よく見かける、特定の作品を批評しているはずが、いつの間にか「~によれば」という具合に特定の哲学や社会学の考え方が引用され、いつの間にか、その説明のほうが主題になってしまうような類のものだ。
(もう一つ補足すると、この「技法」シリーズを扱った人たちよりも上の世代の場合は、端的に「教養なんて何の役にも立たなくて時間の浪費だ!」と語る人たちが多かったように記憶している。)
要するに、「教養」という言葉は、日本の場合、時代時代に応じて、あるいは、世代に応じて、きわめて便利に使われてきたマジックワードであるというのが実態なのだろう。侮蔑の対象にもなれば、尊敬の対象にもなるという具合に、振れ幅の大きいブラックボックスとして、時代状況に応じてその時時の「漠然とある必要な知識の欠如感」を補うものとして便利に扱われてきているように思える。
この点は、教養=リベラル・アーツが、神学/医学/法学の専門教育に向かう前の学習過程として定義されていた西洋諸国とは、実は大きな違いなのではないだろうか。そして、多分、その知的階層は今でも西洋諸国では生きている。専門課程に至る前のビルディング・ブロックのように、知識を積み上げていくための基盤として考えられているように思える。
たとえば、アメリカの大学や大学院のための試験として、SATやGREなどのVerbal(国語=英語)の試験準で「難しい語彙をどれだけ知っているか」が問われているところに、語彙力は専門教育の知のブロックとして機能しているはずだという言語観・教養観が反映されていると感じていた。実際、英語の専門語彙の多くはギリシア語やラテン語を起源としたものが多く語根や派生ルールを学ぶことで比較的体系化が可能だ。漢字を学ぶ際、偏と旁を学ぶと新語にあたった際の意味の類推が増すことに似ている(ここから、日本語の中で英単語を引用する際には、カタカナとして完全に「表音語」としてしまうのではなく英語のスペルのままにする工夫があったほうがいいように思える。スペル=綴りがあれば、意味を類推する手がかりが与えられるからだ。カタカナという「音」だけにしてしまうと原義が何かなど、全くわからなくなってしまう。概念ではなく単なる言葉遊びに興じることも容易になる)。
いずれにしてもアメリカ(おそらくは英語圏、さらには西洋社会)では、教養はビルディング・ブロックとして階層的な知の建築構造(アーキテクチャ)の中で位置づけられている。
(この点は斎藤環氏がヤンキー文化論の中で、欧米の書籍はストック的な情報のものが多いのに対して、日本の書籍はフロー的な情報のものが多いようだ、という見方としていることとも呼応しているように思う。そして、そのフローな性格は、ネットの普及以後、日に日に増しているように思われる。「キュレーション」という言葉も、そのような「超・フロー」な知識流通状況をうまく隠ぺいする言葉として、原義から離れうまく使われてしまっていると感じている。時々、キュレーションという言葉は「編集責任を放棄した編集作業」のように思える時があるし、キュレーションサイトも単にデザイン的に洗練化されただけのスレッドに見える時がある。もちろん、全部がそうだというつもりは毛頭ないが。)
対して、日本の場合は、先述のように「知的欠損を補う気分」としてのマジックワードとしての「教養」である。そして、そのような時代の「欠損を補う知識」という性格を考えれば、現在の日本で最も必要な「教養」とは、端的にいって「現代の科学/技術に対する理解」につながる知恵と知識なのではないかと考えられる。実は、選書10冊を見繕う際には、そのことをかなり意識していた。
理由は大きくは二つあって、一つは、現代の社会生活を支えるものとして科学技術は不可欠なものであるが、しかし、生活環境として定着しており、ブラックボックスとしての存在になりすぎていること。裏返すと、そのブラックボックスにアプローチする「インターフェイス」だけに習熟していれば何とかなってしまうこと。21世紀に入り、日本に限らず、「デザイン」という言葉が広範囲に渡り便利に使われるようになっているのも「インターフェイス」が、多くの人々にとって社会的課題の解決の要になっているからだと思っている。
そして、もう一つの理由は、そのようなブラックボックス化したハイテク社会において、科学技術について学ぶことは、西洋的文化を根っこに持たないがしかし近代社会を生きる非西洋人にとっては、数少ない「西洋的教養の所在を現代に見いだせる」機会だと思われるからだ。
もう少し具体的に言うと、ウェブというメディア・コミュニケーション・テクノロジーが研究方法や研究対象の両面からサイエンスを大きく変えようとしていること、そして、そのサイエンスの成果を含めて社会の経営方法も変わっていること。つまりは、世界観=ワールドビューが変わりつつある。そして、こうしたウェブテクノロジーによる変貌を通じてこそ、西洋的教養を、非キリスト教徒が多数を占める日本においても、現在において経験的に理解できるのではないか。つまり、単なる歴史的知識に留めるのではなく。
となると、一般的な通年としてある「実学/理科の人たち→人文知」という「教養」ルートだけでなく、「文系の人たち→科学技術知」というルートがもう少し強調されてもいいのではないか。この点は、読者の出自が広いビジネス誌まわりの教養特集のほうがカバーする範囲が広いように感じる。端的に編集方針の違いからなのだろうが。
しばしば「教養が足りない、教養が重要」という時、日本で強調されるのは、たとえば古代ギリシアの哲学やローマ帝国の知恵、あるいは啓蒙時代のヨーロッパ、などだ。要するに、人文知が取り上げられる。もっぱら、理科や実学としての社会科学(法学や経済学)を学びその成果を社会で実践している人たちに対して、人文知を頭の滋養として補え、という文脈で語られる。特に、大学改革などの結果、人文系の学部がどうやら冷遇されていると伝えられている昨今、人文知の強調が、以前にもまして強いように感じることがある。もちろん、人文系の知を絶やさないためのことで、それはそれでわかるのだが、しかし、同時に、科学知を人文系が学ぶということがもっと提唱されてもいいのではないか。一種のバランス感覚としてもだ。
前のエントリーであげた選書10冊においても、それぞれの本を実際に紐解いてみればわかることだが、現代の社会問題を法的ないし政治的に扱うにしても、芸術作品を評価するにしても、テクノロジーの成果を評定するにしても、折に触れ、アリストテレスであったり、ライプニッツであったりと、西洋の哲人が引用され、彼らの議論を現在の状況にすりあわせ、古くて新しい問題を抉り出し、それらの解決方法を現代的に提案する。
つまり、教養は生きている。
そして、新たな古典を生み出している。
そのような成果があればこそ、現代社会において教養を学ぶ意味も生じる。単なる「物知り」にとどまらない。「物知り」として自己をアイロニカルに捉える必要もなくなる。
西洋的教養の伝統が日常にかいま見られる機会があるとすれば、それはテクノロジーの利用場面ではないか。とりわけ、メディアテクノロジーとして機能だけでなく意味の伝達も担うウェブは、西洋的教養を実感できる日常的経験の最たるものでないか。そういう意味では、「教養」の対象や流儀を直感的に経験できる中身が重要だ。
ハイゼンベルクとともに量子力学の生みの親の一人であるエルヴィン・シュレーディンガーは、ウィーンのギムナジウムで学んでいた際、ギリシアやローマの古典に親しんでいたという。若いころにシュレーディンガー方程式を見出して以後は、そうした古典から学んだ教養をもとに、物質だけでなく生命や精神などの世界にも思弁の領野を拡大していった。進化や遺伝を物質過程として捉えた思考の結果である『生命とは何か』という著作は、遺伝子とは細胞核中のDNAのことであると捉えたワトソンとクリックをはじめとして、分子生物学を拓くきっかけとして同時代の研究者に多大な影響を及ぼした。科学や技術の現場では、最近の言葉で言えば「ハイテク」の研究開発の現場でも、そのような文脈は暗黙のうちに生きているといえるだろう。
たとえば、アメリカにおいて、行動経済学や行動心理学のように、社会科学の現場に、コンピュータで支援された数理科学を適用した研究が行わているのも、実はおおよそ百年前のシュレーディンガーがとった知的態度と変わらないのではないか。だとすれば、現在進行形で「科学化」されている領域にこそ、西洋的教養が召喚されては適用されているのではないか。
こう考えてくると、21世紀の現代における「教養」の意味を、西洋の文脈で捉え直してみることが、近代社会に生きる非西洋人(そこには日本人も含まれる)にとっては必要なことなのだろう。当の「西洋的教養」自体が現在進行形で変貌しているのだから。