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Lawrene LessigがGoogle Book Settlementに対する考察をThe New Republicに寄稿している。
For the Love of Culture
【The New Republic: January 26, 2010】
そして、それを解説しているのが、次のTechCrunchのエントリー。
Lessig Calls Google Book Settlement A “Path To Insanity”
【TechCrunch: January 26, 2010】
これには日本語版もある:
ローレンス・レッシグ曰く、Google Books和解は「狂気への道」
【TechCrunch: January 28, 2010】
ところで、この件について書こうと思ったのは、上のTechCrunchのタイトルにある“A Path to Insanity(「狂気への道」)”が、英語にしても、日本語にしても、ミスリーディングであることが気になったから。
英語の方でミスリーディングというのは、Lessigのもとのエッセイの主題は、タイトルにもあるように「文化(活動・享受)を愛するために」ということであるにもかかわらず、いくら読者の関心を呼び込むためとはいえ、“A Path to Insanity”という表現をわざわざ使っていること。
この“A Path to Insanity”という表現は確かにLessigのエッセイの中に記されてはいるけれど、主題とは関係ないところで一つの形容として使っているに過ぎない。
Lessigのエッセイで語られているのは、彼が“Free Culture”以来主張してきた、デジタル時代に適したCopyright Lawのあり方の提案にすぎない。
Googleに言及しているのは、Google Book Settlementによって、いよいよ書籍のデジタル化、e-book化が本格化して、Lessigが想像してきた世界が現実のものになってしまうから。
だから、Lessigが危惧していることは、Google Book Settlement自体ではなくて、そのことによって顕わになる、現行のアメリカCopyright Lawの時代錯誤の部分。なので、件のエッセイでLessigが主張しているのは彼なりの代替案の提案。
そのポイントは大きく二つ。
一つは、デジタル技術の下で作られたものは、転送=コピー、となるので、Copyright Lawが想定している「コピー」を管理対象にすることが、そもそも大前提を見誤っていること。
(これは、私がCopyright Lawを教わったコロンビア・ロースクールのTim Wu教授(彼はLessigのサークルの一人)も、インターネットを使う人は現行のCopyright Lawの下では誰もが既に違法行為をしていることになってしまう、だから、そもそも「コピーを管理する(できる)」という前提から考え直さないことにはどうしようもない、と説明していた)。
Lessigの主張のもう一つは、書籍も映画同様「統合型の作品」である、ということ。だから、エッセイの冒頭で引き合いに出したドキュメンタリー映画で起こっているように、書籍を構成する様々なパーツ(文、図、イメージ、装丁、など)について、個別に利用許諾(ライセンス)を取らなければいけないから、それをまじめに法律家たちが取り組もうとすると、あり得ないほどの許諾作業に常に忙殺されてしまう。それゆえ、「自由な創造活動」を「息を止めてしまう」。
日本人の立場で気をつけないといけないのは、Lessigの懸念と主張は、あくまでも法律の実務家(アメリカではロースクール教授も基本的に弁護士=法律家と思ってよい)の立場からの提案であること。そして、その提案の背景には、弁護士社会アメリカといわれるように、日常の民事を含めて多くの法律家が稼働して社会が動いている、という事実がある。
だから、Lessigの懸念の根本にあるのは、実務家的視点からの「社会的混乱」の予感であり、その混乱を未然に防ぐためには、制度的手当が必要だ、ということ。
(そして、エッセイの後半は、その制度的手当に関するLessig案が記されている)。
裏返すと、Google、あるいは、Google Book Settlement自体が、何か悪いことをしている、というような価値判断をしているわけでは全くない。
もちろん、TechCrunchの記事もちゃんと読めば、今述べたことが基本的には記されている。
けれども、そもそも、TechCrunchのようなタイトルがつけられなければ、Google Book Settlement = a path to insanity、というような誤解も生じ得ない。
おそらくは、TechCrunchの書き手は、アメリカのTechCrunchの読み手ならば、そのような誤解は生じ得ない、と踏んで書いていると思う。一つには、アメリカ人的ユーモアの範囲として理解されるはず(つまり、しゃれだよ、しゃれ、という感じ)という見込みから。もう一つは、Lessigの主張を読者の多くが既によく理解しているはず、という期待から。
実際、多分そうなのだろうが、しかし、これが、そのまま日本語訳になるとミスリーディングであることは間違いない。
というのも、上で書いたような「アメリカ人によるTechCrunchの書き手・読み手共同体」のような文脈共有が、日本語になると期待しにくいから。
一つには、単純に翻訳の問題(だから、これは、TechCrunchだけに限らない。CNETやWSJ Japanでも見られること)。アメリカ人の文脈を想像できなくて、「ベタ」に「狂気への道」と取りかねないこと。
加えて、Copyrightに関わる状況がアメリカと日本では全く異なること。それは、今審議中の「フェアユース条項」の様子を見ればわかること。もともとの法律の発想・体系も異なれば、その実施形態としての法文化も全く違う。
加えて、Google Book Settlementについては、日本では、当初、青天の霹靂というか、黒船来襲というか、とにかく、突然、勝手にルールが決められそうになった、というところから始まっている。だから、Google Bookが想定した「図書館書籍のデジタル化」という文脈も全く共有できていない。
留学時代、Google Bookに賛同したNY Public Libraryの分館の傍に住んでいたし、自分自身、コロンビアの大学図書館を利用したこともあるので、Google Bookの動機は理解できるつもりでいる。とにかく図書館利用の頻度が、個人利用でも公的利用(ビジネスマンや各種ActivistsやAdvocates)でも、アメリカの場合、とにかく高い。そして、アーカイブとしての資料を収集することにも積極的。私が留学していた2003年時点でも、たとえば、19世紀末の、「プライバシーのアイデアが確立された」判例やローレビューの論考がデジタル化されてオンラインで検索可能だった。それくらい既にデジタルアーカイブが熟した段階で、Google Bookが始められていた。
(だから、Lessigの懸念の一つが、Google Bookが図書館ではなく書店になろうとしているように見えることにあることも大事な点だと思う)。
このような文脈もなく、むしろ、iPodの上陸、の時のように、出版業界にも黒船が上陸!、とういうような文脈で語られがちなGoogle BookやKindleのような存在に対して、「狂気の道」というのは、やはりミスリーディングだと思う。
(いずれにしても、insanity=狂気、というのは言葉として強すぎる。“insane”というのは、日常表現の一つで、「おまえ、アホか?」とか「あんた、ばか?」という感じで、言う側は、「あんたのしていること、わけわかんないよ」という感じのニュアンス。前後不覚の狂気、というニュアンスはない。だから、あえていえば「狂気への道」ではなく「混乱の道」ぐらいだと思う)。
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結局、私がここで言いたかったことは、IT系の英語情報の日本語版に触れるときには、極力、文脈を補うようにしないと、誤解・誤読が頻繁に起こってしまいますよ、というアドバイスなのかもしれない。
といっても、もともとアメリカのことはわからないから注意のしようもない、というのが普通の人の反応かもしれない(そのための一助と思って、私はここでブログとして書いてきているつもりだけれど)。
願っているのは、日常の翻訳語レベルで小さな誤解が蓄積した結果、本質的な議論の手前の段階で議論が空転するようなことが起こらないこと。
だから、上で縷々記したことも杞憂で終わる可能性もある。
そして、杞憂で終わる方が望ましい。