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1月12日は(このサイトがちなんだ)Pierre de Fermat(ピエール・ド・フェルマ)の命日であることを伝えるWIREDの記事。
Jan. 12, 1665: Fermat’s Last Breath
【WIRED.com: January 11, 2010】
「Fermatの最終定理」の紹介も簡単にされている。
最終的に、この定理は、Andrew Wilesが1995年に証明したわけだが、それまでは「もしかして間違い?」という憶測とともに「数」にまつわる「謎」として330年間、アクチュアルな問いとして生き延びてしまった。
その間、この問いは、数学にまつわる様々な想像力、構想力を惹起してきた。多分、この定理に取り憑かれてしまったが故に人生を棒に振った数学者もいただろうし、多分、そんな定理を信じる奴は馬鹿だと罵ることが理性的にみえる時代もあったことだろう。
だから、わかりやすくいうと、尾田栄一郎『One Piece』の中の「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」のようなものとして、Fermatの最終定理は機能したことになる。『One Piece』の中では、海賊王が今際の際に「大秘宝を残したから探してみろ」と言い残したため、多くの海賊がその発見に人生を賭ける、というのが、物語の駆動因になっている。
それと同じように、Fermatが「最終定理を証明した」と言い残したことだけを頼りに、多くの数学者がその証明に挑んだ。その過程で、副産物として多くの定理や理論が新たに考案されていった。Fermatが残したメモが、その後の数学者の物語の駆動因の一つになった。
(そうした顛末は、サイモン・シンの『フェルマーの最終定理(Fermat's Last Theorem)』が詳しく扱っている)。
証明されなかったら、単なるトンデモ言説に過ぎなかったかもしれない「フェルマの最終定理」は、だから、人間の想像力や構想力のもつ両義性、二面性、を体現している。
整数論、というのは、数学の中でも、経験と抽象の間を往復することが求められる不思議な分野。なぜなら「数え上げる」ことが数学が登場する出発点であったから。それに、「数え上げる」ということを何層にも複雑に重ねていくことが、コンピュータによる計算処理の基本でもある。今では、シミュレーション手法によって、新たな(疑似)経験科学として計算科学が立ち上がっている(その一つの解釈が前に触れた第四のパラダイムとしてのData-intensive Computing)。
有限の中から無限へと近づくモメンタムを常に携えながら、けれども有限の中にとどまり続けている存在のあり方は、コンピュータ=計算機械=数え上げ機械の登場によって、たとえば、計算量という尺度で明示的に示されるようになった。
Fermatの物語は、こうした今日の「計算量的存在」ともいうべきものを想像する出発点になったという点でこそ、記憶しておくべきものだと思っている。