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junichi ikeda

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Culture Snob New Yorkers の出版文化の憂鬱

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広告不況により新聞や雑誌の事業としての先行きが不透明になったり、
Kindleのようなデジタル書籍機械が実際に市場に登場したり、
Google Book Searchで図書のアーカイブのあり方が大きく変わろうとしたり、・・・。

ここのところ、プリントメディアが、デジタルやネットの変化の力に押され気味になっており、ともすれば、もう紙媒体は衰退の一途をたどるのではないか、と見られがち。こうした状勢を反映してか、最近、出版文化を憂うOpinionが散見される。

*

まずは、New Yorkがかつての文化都市としての輝きを失ってしまい、それに取って代わるのがインターネットではないか、と嘆いてみせる、HarpersのeditorがNYTに寄稿したOp-Ed。

Bright Lights, Big Internet
【New York Times: July 30, 2009】

いうまでもなく、"Bright Lights, Big Internet"というのは、Jay McInerneyの"Bright Lights, Big City"のもじり。

毎年、夏になると、NYで一旗揚げようと、希望に満ちたアーティスト志願の若者がマンハッタンに集まってくる。アーティストというのは、作家、ミュージシャン、芸術家、編集者、コメディアン、パフォーマー、思索家、などを含むもので、そうした夢を持った若者たちが、"big break"を目指して躍起になる。NYはそういうポテンシャルを抱え込んだ街だった。

けれども、今では、NYが与えた「アーティストがブレイクするための機会の場」はInternetが与えるようになったのではないか、と論じるのが上のOpinion。

マンハッタンの街頭で歌ったり、パフォーマンスをしたりしてブレイクするのを待つよりも、自作の歌やパフォーマンスを映像にしてYouTubeやFacebookにアップした方が可能性が高いのではないか、そう判断する若者が増えてきている、という。

つまり、"big break"を引き起こす回路として、NYという街と遜色ない存在としてネットが位置づけられてきた、ということ。

それに加えて、このOpinionの書き手は、NYの文化的影響力を支えてきたプリントメディアが経済的に苦しくなって、彼の場合であれば、Harpersの周辺で、若い編集者や書き手、ジャーナリストを雇うことが困難になっていることを挙げている。ブレイク回路としてインターネットのプレゼンスが上がっているだけでなく、NYのメディアの現場の地盤沈下が起こり始めていると実感するがゆえに、さらに、インターネットの重要度が上がるように認識してしまう状況に書き手のBill Wasikはいるようだ。

*

New Yorkがメディアやカルチャーの街、というとき、その大部分は書籍や雑誌などの出版ビジネスが担ってきた。もちろん、ラジオやテレビの拠点もNYにあり、それはこうした放送メディアの立ち上がり初期において、マンハッタンで行われる音楽コンサートや、ブロードウェイの演劇、が番組の素材として利用されたから。もっとも、その後、映画の波に押されて、放送メディアのエンタメコンテントの中心はLAに移ってしまったわけだが。

だから、文化的なNYという時、それは、東京でいえば、神保町とか中央線沿線とかの、書籍の臭いがする街に感覚的には近い。マンハッタン南部のGreenwich Villageや、NYUの拠点のWashington Squareあたりがその雰囲気を残している。巨大な古書店であるStrand Bookstoreに行けば、多くの人が本を求めて集まっていて、街全体が本好きで成り立っているように錯覚するほど(実際はそんなことはないのだけど)。最近ではStarbucksのようなチェーンのコーヒーショップに押され気味ではあるが、それでも、この地区には、古くからのカフェもいくつかあって、そこでパラパラ本をめくる人がいる。あるいは、ダイナーでコーヒーを飲みながら、持参のペーパーバックを黙々と読み続ける夫婦がいたり、と。本当に本好きの集まる雰囲気がある。

そして、本好きという点では、New Yorkerはインテリでありスノッブだった。文芸ジャーナリズムという形態もそうしたスノッブなNew Yorkerがいればこそ、商業的に成り立っていた。

(New YorkerやVanity Fairは、文芸「ジャーナリズム」として認知されている。だから、書き手は文芸「ジャーナリスト」になる。このあたりは、メリル・ストリープ主演の『プラダを来た悪魔』を見ると雰囲気がわかる。劇中で、ノースウェスタン大学のジャーナリズムスクールを卒業した、主人公のアンドレアが、確か、ジャーナリストとしてVanity Fairとかで書くのが夢、と言っていた。このあたりは、文化的なものの多くが「サブカル」にカテゴライズされ、ジャーナリストではなく「ライター」と呼ばれてしまう日本とは、ニュアンスが異なることになる)。

*

そうしたスノッブな輩がいなくなったらどうなるんだ、というのが、次のVanity Fairの記事。

What’s a Culture Snob to Do?
【Vanity Fair: August 2009】

スノッブがいなくなるのは、KindleやiPodによって、本や音楽の中身がデジタルデータとして扱われ、従来の、物理的存在としての、本やCDが持っていた“the visible marker of superior taste and intelligence(最高級の趣味の良さや知性を見える形で示すもの)”がなくなってしまうから、というのがこの書き手のロジック。

あたかもヴェブレンの顕示的消費を地でいくように、以前は、地下鉄に乗れば、誰がどんな本を読んでいるか気になった。どんな本を読むかが、その人の趣味や教養を著すものだった、と。そして、スノッブを自認する人々は、“prying eyes(獲物を狙う目)”で、地下鉄に乗り合わせた人の本を物色したものだった。本やレコードなどの文化財は、持ち主の趣味や知性を示す存在で、その意味で、持ち主のアイデンティティの支えであった。

ところが、iPodやKindleが出てきて、本や音楽がデジタル化され非物質化されてしまうと、そうした「見せびらかし」のシグナルを外から見いだすことはできなくなる。そして、いつしか人々はその方が当たり前のことだと思うようになる。そのとき、スノッブはどうするのか?

このopinionの最後では、本や音楽への愛=美学が、一種のethics(倫理)であり、progressive virtue(進取という美徳)にまで高められて語られていて、このOpinionのVanity Fairでのカテゴリーが“Modernity(近代性)”とあるとおり、近代的な文化が凋落していく様を幻視するまでに至っている。

裏返すと、アメリカの文化状況の理解として、少なくとも最近までは「モダン」が残っていたことになる。実際、NYにはMetやMOMAだけでなく、数多くの美術館やギャラリー、博物館、劇場、そして映画館やライブバーがあって、文化的には「モダン」の香りがするのは確か。

そうした中で生活しながら文章を紡いできたeditorsの思いは、たとえば、Kindleに厳しい評価を下すことになる。

A New Page
【New Yorker: August 3, 2009】

Kindleに限らず、従来のコンテントがデジタル化すると、一般的には視認することが難しくなる。ジャケ買いなんてことは起こりにくくなる。そもそも、ジャケットが芸術表現として制作される機会が減ってしまう。

こうしてスノッブがよりどころとしてきた「視認性の高い文化意匠」が、デジタル化され非物質化してしまうと、それは、今まで知りもしなかった文化とある日突然「邂逅」してしまう“Serendipity”の機会が失われてしまう、と嘆いているのが次のOpinion。

Serendipity, Lost in the Digital Deluge
【New York Times: August 1, 2009】

たとえば、人の家に行って、彼・彼女の蔵書やコレクションを盗み見て、時に驚くような本やレコード(CD)と遭遇するような「魔法の瞬間」を私たちは失ってしまうのだ、と。

もっとも、このOpinionは、単純に、Serendipityがなくなることを嘆くだけでなく、デジタルが側の、Serendipityを人為的に構成していこうとする試みに触れている。

とはいえ、それらは、基本的に「確率的な」「ノイズ」を人為的に忍ばせることで、ランダムに何かに出会う機会を作ろうとするものがほとんど。あるいは、そもそもの「選択の意思決定」自体を、自身の判断から遊離させ、たとえば、ダイスやコイントスをすることで「偶然選択してしまった」という事態を引き起こすことで、代用してしまおうというもの。

これは、おそらくは、当事者の外から観察する立場からすれば、従来のSerendipityと変わらないのかもしれないが、しかし、当事者に立ってみれば、「偶然の構成」に「人為的な介入」があるかどうかは大きな違いだろう。少なくとも、それを意識することで、相当シニカルな態度が身についてしまうように思う。

(このあたりは、「偶有性(コンティンジェンシー)」の議論と接続するところ)。

*

以上見たように、文芸ジャーナリズムの周辺にいる人々が、あたかもシンクロするかのごとく、プリントメディア、文芸の凋落(の可能性)を幻視して嘆いている。この「同期性(シンクロニシティ?)」には何かがあるように感じてしまう(のはユング的すぎるか?)。

とはいえ、実際にNYに住んだ経験のある人間の目からすると、いずれもいささか「文芸の目」で見過ぎている、というのが本音。

私がNYにいた2004年前後でも、たとえば、地下鉄に乗れば、本を読んでいる人はもちろんいたけれど、それと同時に、ニンテンドーDSやPSPを行っている人は多数いた。当時のNYはまだ携帯電話の高度化が起こっていなかったので、ケータイをいじってる人はいなかったけど今ならきっとSmartphoneを手にとって使っているはずだ(余談ながら、2年間の留学生活が終わって帰国して一番驚いたのは、地下鉄の中で誰もがケータイの画面を覗きながらいることだった。文庫本を読むでもなし、雑誌を抱えるでもなし、というのにかなり驚いた記憶がある)。

それに、その当時から既にアーティストと呼ばれる人たちは、VillageやSohoのようなマンハッタンからは抜けだし、対岸のBrooklynに移り、さらには、もうNYを抜けだし、Beat Generationのケルアックよろしく、西海岸に移っていた。もっとも、移る先はサンフランスシスコよりも北のシアトルやオレゴンが中心だったらしいが。

そして、彼ら・彼女らが、マンハッタンやNYを抜け出したのは、インターネットがどうこうではなく、単純に不動産価格が上がりすぎて活動を続けるには経済的に苦しくなったのが主な理由だった。

だから、上の書き手たちは、いずれも、少しばかり現実と遊離した感覚でマンハッタンを見ていたのかもしれない。

(作家の森博嗣が、「日本の出版業界の問題は本好きだけが本を作っていることだ」と言っていたが、そうした傾向はどうやらアメリカでも変わらないようだ。)

*

ところが、西海岸のeditorであるChris Andersonは、ジャーナリズムは副業かあるいは趣味でしか行えなくなるかもと嘯き、NYerの書き手の懸念の本質=失業の可能性を言い当ててしまう。

CHRIS ANDERSON ON THE ECONOMICS OF 'FREE'
【Spiegel International: July 28, 2009】

西海岸、というか、サンフランシスコは、むしろ、95年前後のインターネットの本格普及にあわせて、オンラインを核にしたメディアを立ち上げ、いわばNYのカウンターを形成してきた。

Wired しかり、Salon.comしかり、CNETしかり。

特にWiredとSalon.comはそれぞれ、サンフランシスコとのヒッピー文化の中心にあったWhole Earth Reviewの歴史を継承している。Wiredは人的つながりで、Salon.comは、Whole Earth ReviewのオンラインフォーラムであったWELLを吸収している。

だから、インタビューでAndersonが応えているように、地元紙のSan Francisco Chronicleがどうなろうと、そもそも普段から触れていないから気にもかけない、ということになる。

(多分、日本の感覚は、San FranciscoよりもNYに近いだろうから、逆に言うと、Andersonたちはそれくらいクレイジーだということでもある)。

とにかく、同じインターネットの影響に対しても、東海岸(NY)と西海岸(SF)でこんなにも対応が違うわけだ。

アメリカでは、文化都市NYによるアメリカ文化の占有を好ましく思っていない人は、他の州には必ずいて、メディアの新しい技術が登場しては、対抗軸を形成してきた。映画によって独り立ちしたのがLA(ハリウッド)だし、多チャンネルケーブル登場期には、南部アトランタからCNNが誕生した。

もっとも、CNNは今はTime Warner傘下だし、CNETはCBSに買収されていたりと、NYのメディア資本のしぶとさもなかなかに凄い。

ただ、それは、メディア「資本」として生き残ることであって、特定の「メディア」が生き残るわけではない。その意味で、NYの(文芸)ジャーナリズムのeditorたちが憂鬱になるのもわからないわけではない。

そして、「モダンが終わる」と嘆息してしまうこと自体、彼ら自身がスノッブであるからこそ、というのがどうにも皮肉といえば皮肉。それが、「終わり」を予感する(待望してしまう?)感覚を共有する背景にあるのだと思う。

*

最後に。
それにしても、彼らはエディターだが「書けるエディター」なところがすごい。
いわば、シュートも打てるミッドフィルダーのような人。

以前は日本にもそういう人がいたけれど、最近は、(書けるのかもしれないが)黒子に徹したり、あるいは、プロデューサー(というか手配士)になっていることの方が多いように思う。

最近の日本の書き物はおしなべて「世代の烙印」を押されたものが多い印象を持つが、それも、エディターが介在して、同系統の話について、先行した書き手(≒年配者)との間で対話をつくろうとしないからだろうな、と思うことがある。

たとえば、最近出版される新書を見ると、若い書き手は一時期よりも増えてきているようだけれど、ただ、そこに書かれているものは、先行者の業績の編年体的ダイジェストが多くて、「よく勉強しました」と思うような本が多い。

ただ、本当に読みたいのは、そうした勉強した内容を踏まえて、先行者とともに今の話題について検討することのように思うのだけど、そういうものは少ない。企画の性質からそういうものは、雑誌の対談が中心になるが(一時はやったウェブ上の往復書簡というのはもう企画としてもないようだ)、たいていの場合、対談者がすでに知人やお友達であることが多い。本当は、エディターが介在して、(多少のリスクを負っても)テーマオリエンテッドの対談なり鼎談なり特集なりがあってもいいのだと思うのだが。

そう思うと、上で取り上げたアメリカの雑誌は、まだ、そうしたエディターシップが生きた企画が展開されているように思う。

今、アメリカの雑誌の日本版が軒並み休刊(or廃刊)になって日本市場から撤退しているけど、こうした日本の状況がもしかしたらアメリカの出版状況の近未来なのかもしれない。