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junichi ikeda

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裏切られたInnovation

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June 10, 2009 11:17 jst
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今週のBusineWeekのカバーストーリー。

The Failed Promise of Innovation in the U.S.
【BusinessWeek: June 3, 2009】

執筆は、BWのチーフエコノミストであるMichael Mandel。彼は、Harvardで経済学のPh.Dを取得している。BWで長年、innovationやテクノロジーに関する記事や論考を書いてきた。著書もいくつかあって、たとえば、“The Coming Internet Depression”は日本語訳も出ている(邦訳『インターネット不況』)。

今回のカバーストーリーの骨子は、雑誌本体の表紙に“Innovation Interrupted(中断されたinnovation)”とあるように、ゼロ年代に入ってからのアメリカは、ことあるたびごとにInnovationを称揚してきていたにもかかわらず、現実には、新たな商品も事業も誕生していないではないか、その意味では、Innovationは“Failed Promise(=反故にされた約束)”だったのではないか、というもの。

つまり、Innovationと騒がれても、それは単なる「Innovationの言説バブル」に過ぎなかった、ということ。Innovation、Innovationと騒ぐけれども、ただそれは言葉が踊っているだけのことで、実態が伴っていなかった、と。

*

ところで、ここでMandelが使う“Innovation”という言葉は、Ph.D 所有者という彼のアカデミックな背景から、かなり厳密に使われている。

まず、

●innovationというのは、通常イメージされるIT分野に限らない。バイオや代替エネルギー等、テクノロジー全般に関する革新そのものを意味する。

そして、マクロ経済的にも厳密に使おうとしていて、

●innovationは、生産関数を構成するよう要素のうち、ある時点における「生産性」を変化させる活動全般を意味する。

(これは、マクロ経済学では導入部の定義のようなもので、標準的な教科書(ちなみに、著者の一人はBen Bernanke)では次のように定義している。

 Y=f(A, K, N)
  Y: ある時点における実質生産量
  A: 生産性
  K: 投下資本
  N:投下労働総量

応用上は、Aについては短期的にはほぼ一定のはずなので、
 Y=AF(K, N)
というように、線形近似することが多い)。

そして、生産性を変えるもの=テクノロジー、というのがMandelの基本的な考え方。

裏返すと、生産性の改革につながらないようなものをInnovationと呼ぶことにはMandelは抵抗を感じているようだ(この点で彼は典型的な産業資本制支持者といっていいだろう)。

(BWのカバーストーリーはPodcastでも扱われていて、今回のカバーストーリーでは、Mandelがインタビューを受けていた。インタビューの冒頭でMandelは「最初にいっておきたいが、私のいうinnovationというのは・・・」という具合に定義問題から始めていて、Innovationという言葉が単なるマジックワードになりさがっていたことに対して多少なりとも不快に感じているようだった。)

実際、政治家やメディアがPublic discourse(公共政策に関わるような場面での発言や記事、報道、など)として、「innovationが大事だ」という時は、上のマクロ経済的な意味を尊重してのこと。

たとえば、オバマもinnovationは大事だといい、そのために基礎研究予算を増加しようとか、数学や自然科学の分野の教育予算を増やそう、という主張をいろいろなところでいっている。この場合は、innovationはほとんどtechnological innovationと同義になっていて、いわゆる理工系の、産業利用が可能な大がかりな「技術革新」に限定されている。

*

最初にこのMandelの記事を読んだとき、「本当のinnovationとは」というような定義問題へのこだわりを感じさせる書き方で、この人、で、何が言いたいのだろう、と感じた。全体的に、迂遠な印象を受けた。「イノベーションは起こらなかったじゃないか」といって、どうしたいの?、と。

ここからは、私なりの解釈が入ったMandelの主張になるが、彼は要するに、「アメリカはイノベーションの国だ、といって、世界中から投資資金を集めて、実際、それが投下されたにもかかわらず、実際に起こったことは、不動産バブル、ハウジングバブルで、あれだけ期待していたテクノロジーの進歩=革新は起こらなかったじゃないか」ということに「憤っている」のだと思うし、だから、「これから、きちんと、本当のイノベーションを行えば、まだまだアメリカはいけるぜ」といいたいのだろう、と踏んでいる。要するに「アメリカよ、自信をなくすな」ということ。

これは、若干、媒体そのものに関する「色眼鏡」的解釈になるけれども、BWはビジネス誌といってもかなり「実業」、アメリカでいうところの“Main Street”によった記事が多い。この点は、イギリスのThe Economistが政治も経済も技術も「投資情報」として扱おうとする傾向、つまり、The EconomistがWall Street やロンドンのCityよりの編集視点になっているのと好対照をなしている。もちろん、BWもWall Street やFinancial sectorの話を多数掲載するけれども、決してそれだけではないところがある(The Economistについては、イギリスに製造業がないからさ、という皮肉もきかれたりする)。

Mandelの主張も産業界≒製造業を鼓舞するものなのだろう。つまり、今回の景気後退はかなりのところ金融バブルによるもので、Main Streetからすれば「とばっちり」に過ぎない。だから、ちゃんともう一回、innovationに取り組もうぜ、投資家もちゃんと「本当のInnovation」に資金を出してくれ、と。経営者もちゃんと地に足のついたinnovationを推進してくれ、と。こんな風に言いたいのではなかろうか。

だから、アメリカ的な意味での「entrepreneurship と結びついたpopulism」の礼賛というのが今回の記事の主旨なんだろうと思う。クローン技術でも、代替エネルギー技術でもいいから、先端技術が約束した技術の夢を叶える方にのりだそう、と(この点では、前に紹介したWIREDの特集とも呼応したものといえる)。

*

最後に補足しておくと、経営学の文脈では、innovationというとドラッカーの影響は捨て置けない。ドラッカーの考え方にしたがえば、経営というシステムその改変そのものをinnovationと呼ぶ傾向があり、これは必ずしもテクノロジーに関するInnovationに限定されない。

とはいえ、社会への情報技術、情報インフラの浸透によって、ドラッカーのいう経営システムの改変も、かなりの部分、情報技術=テクノロジーの改変、によって実現されるようになったのも事実。そのため、より身近なレベルでinnovationという言葉を利用できる素地ができているのも確か。

(なぜかドラッカー信仰が強い日本では、経済学的な意味からではなくドラッカーのイメージからinnovationを捉えてしまう傾向がある。その場合、下手をすると、単なる業務上の工夫までinnovationといわれてしまうこともあって、言葉としてのinnovationの大安売りが始まってしまう。きちんと考えるタイプの経営者は必ず定義問題に帰るので、こういう勘違いはないのだけれど、メディアの文脈はこのかぎりではなくなる)。

こうした傾向をちょっと引き延ばすと、innovationが「技術革新」から「組織革新」を経て「社会革新」につながってしまう可能性もあって(実際、ドラッカーにはそういう傾向がある。NPO経営に注目したのも、亡命オーストリア人であるドラッカーが、英米人にとっては当たり前のNPOという組織形態に、異なる社会システムの可能性を見いだしたから、だと思う)、その手のイメージが、「インターネット=自由」言説とも結びつくところもある。そうすると、この文脈でも、innovation言説が勝手に増殖することになる(いわゆる「創発」という事態)。

言説バブルのもうひとつは、上で言ったように、世界中から投資資金を集めるための、政治的惹句としてのinnovation。実際、アメリカが抱える貿易収支の赤字も、アメリカ製造業の競争力の低下のせいではなく、アメリカが魅力ある投資機会を与える国であるため金融収支が黒字であることの裏返しの現象であるに過ぎない、という議論の仕方もアメリカではされていた(Richard Claridaコロンビア大学教授もその一人。彼は今PIMCOのエコノミストもしている)。その分、innovationが金融業界周辺で叫ばれることになったし、そのことをサポートする学者の言説も増えていたと思う。

いずれにしても、Mandelは、こうした「言葉のバブル」を一回清算して、きちんとinnovationの意味を見直そう、と言っているのだと思う。

というわけで、やはり、とてもアメリカ的なカバーストーリーだったと思う。
でも、私は、こういう地に足のついた議論は嫌いではない。