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ニュースサイト、有料化への再トライアル?

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May 20, 2009 20:00 jst
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オンラインメディアは、この数年、既存マスメディアの広告原資を奪取しながら成長を続けてきたわけだが、さすがに足下の景気後退の影響を受けずにはいられなくなっている。とりわけ、ニュースに関連するサイトはそうで、逆に、この広告費減少をいい機会にして、オンラインメディアの有料化に再度トライしようとする動きがきかれるようになった。

こうした、オンラインメディアの有料化の動きをまとめたのが以下の記事。

Media’s want to break free
【Financial Times: May 17 2009】


マードックのNews Corp.、Time Warner、Apple、などの会社の動きが紹介されている。ここでは、「マイクロペイメント」などが紹介されているが、ポイントは、

●広告だけではなく、利用者、読者からの収益機会をつくる
●対価の請求方法に、段階的なオプションをつける。
●対価の請求方法として、マイクロペンメントというように、小額決済を導入する

あたりか。
現実的には、対価方式を導入する場合は、読者にとって切実な、より深い情報に関わるところから始めるのだろう。一般的な情報は、従来と同様、無料、ということではないかと思う。

有料化の試みは、今までも何度か試されてきて、近いところでは、NYTが、アクセス数の多いOp-Edコラムなどを中心に、有料のTime Directと言うのを導入したが、結果的にはOp-Edへのアクセスが激減。なかば都市伝説的ではあるが、当のOp-Ed寄稿者(トーマス・フリードマンやクルーグマンら)が激怒して、結局、有料化を辞めてしまった。

今回の有料化の動きについては、マードックの豹変ぶりはすごい。WSJを買収した直後では、アメリカの景気の良さもあったためか、むしろ、WSJの全面広告化・無料化を導入する予定だった。それが、一気に有料化のトライアルを図ろうというのだから、いかに今回の景気後退が厳しいものか、察せられるというもの。

もっとも、オンラインの無料化は、もともとはウェブの世界の中で最初にブランド化したところが後々も主導権を握る、という、あえていえば「Web1.0」の時代の思考様式が残ったまま今に到っているわけだから、Google(や検索エンジン系)によってウェブの世界の区画整理がなされ、SNSやブックマークサイトによって相互リンクによる導線が確保され、Twitterのようにヘッドライン的情報が即時に送されるような状況では、ブランド化といっても元ネタは一緒と即座に判ってしまう。だから、ウェブの世界で橋頭堡を築くために無料化する、という考え方事態が、既に時代遅れといえば時代遅れだった。外部の情報の摂取には組織としてとことん貪欲なのだが、その情報が自分たちに振り返ったらどうなるのか、ということに組織的に対処できないのは、メディア企業がおしなべて「自由な(個人という)」社風をもつがゆえのピットフォールといえる。

今回の有料化は、そういう意味では、オンラインは無料でも本業で儲かっていればまずは大丈夫、という、本業(新聞、雑誌、テレビ、等)の収入による補填スキームが効かなくなってきたことが大きいのだろう。

(個人的には、WSJもFTもオンラインの購読料を払って閲覧しているので、有料化が特段に難しい試みだとは思っていないのだが。役に立てば支払いも全然okだと思う。たとえば、Huluあたりが地域視聴制限を外してペイサイトになったら、価格設定さえおりあえば多分加入すると思う。)

そういう意味では、記事中で引用されている、音楽業界に関する記述が興味深い。つまり、様々なビジネスモデルの試みは今後も続くとは思うけれども、結局のところ(とどのつまり)「無料化」を受け入れなければならない、というあたり。公式には有料で提供していても、世界の何処かで無料のものがあれば、結局は無料の方向になびいてしまう、と。

これは、この記事とは直接関係ないが、以前聞いたところでは、(世界の)音楽業界は、今、むしろ、ライブの方に力を入れていて、チケット収入を通じてファンダムを広げていこうとしているという。そういう、小屋(ライブ会場)を押さえようという動きも、この「無料」が常態化したことへの対処方法の一つなのだろう。

だから、きっと、ウェブにあるからといって、汎用性のある、一律のコンテント・ビジネスの解があるというのではなく、むしろ、コンテント毎にウェブの外の収益機会とどうつなげるか、が解に到るためのキッカケのように思う。ニュースビジネスとnon-profitがここのところセットで語られるのも、そうした動きの一つと考えるとよいのかもしれない。

*

そうそう、英語圏の場合、Freeに「自由」と「無料」の二つの意味があるが故に、“The Internet is free.”といって無料であることが自由の前提であるかのごとく主張する動きが後を絶たないのは確か。もちろん、こう主張している人は、freeの意味の二重性をわかってわざと誤解を促すように言ってるわけだが。この点、言葉が峻別できる日本人とは語感のレベルで違うことには留意すべき。

裏返すと、そういうfreeという言葉の二重性に日本の人たちは鈍感ともいえる。特に音楽の場合、洋楽のかなりの楽曲は、歌詞をみてみればかなりのものが「Free」について歌っていたりするので、楽曲とアーティストの行動とのズレがあったりすると、言行不一致だということで論争を呼んでいたところがある。そもそも、アメリカの場合、音楽や楽曲の置かれている場所がとても政治的(ついでにいえば、映画もよく見ると、かなりのものが何らかの形で政治的な主張を隠しもっていたりする。特にコメディ)。

「有料化に抵抗する人たちが存在し続ける」理由についても考慮しておかないと、この手の、コンテントの有料化・無料化に関する(海外の)論議については、その理解に躓きかねない。このことは(特に日本の人たちは)記憶しておいてもいいと思う。

(というのは、先日、東京で行われたローレンス・レッシグの講演会に行ってきたのだが、質疑応答の段階になって、今指摘したような点でのズレが、レッシグと聴講者の間であったように思うから。そもそも、レッシグのプレゼンテーション自体が、アクティビストとしての彼の立場を反映した、ある意味「扇動」的なものだったのだが、聴講者の方は、それを学者が行う「真理=正しいこと」として聞いていたように見えた。アメリカの学者には半分くらいアクティビスト的性格を持った人がいて、彼は明らかにそちら側。プレゼンテーションをそれこそライブのように受けとめるのが、そういえばアメリカ流だったなぁ、と思い出した次第)。