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NYで学んでいたとき、何度かこんな風に感じた。
アメリカにおいては、言葉の重みが違う。
言葉が現実を動かす。
言葉が人を動かす。
言葉が政治や企業や社会活動全般を動かす。
そして、こうした信念が強く働いている。
いわば、言葉は、半虚半実、というか、
言霊的な、「言えば実現する」、という力があるように見える。
それは、たとえば、マスメディアやジャーナリズムの印象が、
日米で随分異なることとも通底していると思われる。
マスメディアがあたかも、ことばの闘技場のように見える。
政治番組、討論番組、なんでもいいが、
そこで語られたことは、半分はウソだが、半分はホントのこと、
現実を引き寄せる、潜勢力をもったものとして、言葉が捉えられている。
だから、みな、真剣に語るし、
語り方の流儀を知っているし、
・・・
これを普通の人の行動様式に変換すれば、
言葉を強く信じる、
言ったことは実現する、
言ったことは、その語り手の、半ば体験であり、真実味がある、
言ったことはリアルである、
そう、自動的に解釈しようとするメカニズムが、
アメリカ人の中には眠っているように思える。
そんな時が多々あった。
ただ、これは、あくまでも個人的経験でしかない。
帰国してから、日本のマスメディアが、報道を含めて、どんどん幼稚化し、あたかも、離乳食を提供するがごとくになっていく様子を見ながら、
どうして、こんなことに、思っていた。
(なにしろ、メディア関係者自身が、メディアはつまらなくなった、
と自らこぼすぐらいだから)。
*
では、アメリカ人はどうして言葉を信じるのか。
言葉そのものに肉薄して考えていくしかないのだろうな、と思い、
それまで遠巻きにしか見ていなかった、英語の書き物そのもの、
つまり、小説、ノンフィクション、新聞や雑誌の記事、レポート、論文、・・・、
多分、まるめると、English literature(英文学よりも対象は広いと思う)を
広く目を配るように心がけた。
その中で、当代の名翻訳家である柴田元幸の著作の中で、
補助線となる記述を見つけた。
*
柴田がイェール大学に留学していたときに遭遇した、大学内でのストについて。ストに参加する院生が、断固反対とかいって籠城を決め込むのかと思いきや、そうした示威活動のさなかにも、どうやったら、ストが早く終わるか、大学側といかにして双方が納得できる方向で早期終結を向かえられるか、熱心に話し合っていたという。そうして、柴田はこう続ける:
「アメリカという国の魅力も、こうした姿勢にある。硬直したお題目としての理想ではなく、何が理想かをその都度実際的に見きわめつつ、それに向かって進もうとする姿勢。」
さらに、こう続ける。
「極端に言うなら、アメリカにおいて、現実とはアメリカの半分でしかない。あとの半分は、いまだ達成されていない理想である。半分は夢でできた国なのだ」
「「ここは自由の国だ」とアメリカの人々が言うとき、僕にはそれは事実の表明には聞こえない。むしろ、「自由の国であるはずだ」という理想の表明に聞こえる。むろん、この言葉の理念が歪められ、独善的に使われたりすることもある。だがその本来の理念が、アメリカという国を作り、変えていく上で大きな力になってきたことは確かだ」
「そこが他国とは違う。日本について人が「ここは・・・・・・の国だ」と言うとき、その「・・・・・・」はあくまで慣習や前例のことである。いまだ実現されざる理念のことではない」
(以上、引用は、柴田元幸『アメリカン・ナルシス』 p232-233より。)
上で書いた私なりの問題意識とつなげると、こう言えるのではないか。
アメリカの場合、言葉は常に二つの意味を持つ。
ひとつは、その言葉がもつ「事実」の側面。つまり、「である」
今ひとつは、その言葉を「理想の目標」とする側面。つまり、「であるべし」
「事実(である)」に対する記述が、つねに「当為(すべし)」を含んでいる。
ちなみに、「事実」から「当為」は引き出せない、というのが
哲学の一般的な見解。
だからこそ、この両者が接続するには、相応の文化的背景が必要になる。
このあたりを、同じく英文学者の巽孝之は、「アメリカン・ナラティブの認識的伝統」という言い方で説明している。
(つづきは次回エントリーで)