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September 17, 2008
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junichi ikeda

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WSJのリニューアル

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September 17, 2008 10:04 jst
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junichi ikeda

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米国時間で9月16日に、Wall Street Journalがサイトのリニューアルを行った。
CNETなどのネット・ジャーナルサイトでは、SNS機能が加わったことが特記事項として扱われているようだけど、私の第一印象は違った。そして、それは多分、私が日本人だから、ということとも関係している。

私の第一印象は、「なんか、雑誌サイトみたい」というものだった。
でも、次の瞬間、そうか、ネットでジャーナリズムを展開しようとすると、むしろ、こういう形態が普通=ひな形になったんだな、と思い直した。

ニュースサイトは、出自の様式を引きずってインターネットに参入してきた。日刊紙(いわゆる新聞)、週刊誌(いわゆる雑誌)、速報サービス(ロイターなど通信社によるサービス)、データサービス(ブルーンバーグ等)、テレビニュース(CNNやMSNBC)、など、インターネット登場以前に既にサービスを開始していた企業群は、インターネット誕生期においては、各々の出自の媒体様式・編集様式に応じた形態で、ネットに参入してきた。

そこに、ネットの進化とともに、SNSやブログなどの、コミュニケーション強化機能や、マッシュアップなどのインターフェース機能が付加されることで、少しずつネット上の「顔つき」が変わっていった。こうした変化は、無論、テクノロジーとの距離が少ない、ポータルサイト系のところからスタートした変化だったが、ネットの普及=大衆化を通じて、より広汎に影響を与えるようになった。今日では、Huffington Postのように、SNS・ブログ機能の集積体が一つの媒体を形成しているような印象を利用者に与える、という効果を転用しながら、他のニュースサイトと同様に、インターネット上の情報源として認知されているし、今年のアメリカ大統領選では、選挙キャンペーン方法の新機軸としてSNSの有効利用が大々的に紹介されている。

こうした変化を考えれば、WSJのリニューアルはむしろ遅かったぐらいといえる。

WSJは、インターネットがまだ揺籃期の、かなり早い時期にサイトを立ち上げ、かつ、ネットの世界では例外的に有料でニュースサイトを運営してきた。私も、90年代後半には契約して今に至っている。

だから、私のインターネット上のニュース・リーディング経験の大部分は、WSJが形成してきたと思う。今回のリニューアルで雑誌的になった、というのはWSJに長らく親しんできた私の印象といえる。

その一方で、どうして日本のニュースサイトは相変わらずのままなんだろう、という思いも強くもつ。これが、冒頭で、私が日本人だから、といったことだ。

日本語のサイトは、上の表現にならえば、ネットの最初期の頃と大して変わらない。もう少し正確に書くと、進化があるところと、進化がないところに、明確に線引きがなされている。最近の流行の表現をつかえば、「ガラパゴス化」されているともいえる。やっかいなのは、携帯電話事業については「ガラパゴス化による日本企業の失速」を書き立てるマスメディアが、たとえば、欧米のニュースサイトとの間に、同様のガラパゴス的断絶があることに、気がついていないように見えることだ。

携帯電話事業については、ノキア、アップルの上陸によって、改めて歴史の反復を見る思いがする。かつての、DOS/V上陸による和製PCであるPC98らの駆逐、Windows 95上陸による和製OSの撤退、インターネット上陸によるATM構想(NTTによる中央管理型のネットシステム構想)の挫折、に見られた同じ事態が、いま携帯電話事業に生じている。

(携帯事業のことについては稿を改めたいが、一点書いておくと、日本のガラパゴス化はコロンビア大学院留学中に実感したことで、帰国後、そういう話を携帯電話事業関係者にしたこともあるが、2005年当時は一笑に付された、ということだけ記しておく。)

WSJのリニューアルは、アメリカという経済圏(これは事実上世界の英語圏を含み、そのプレゼンスは大きい。その是非自体はここでは問わない)で、情報流通の形態が、一種の標準化に直面している、ということの表れだと思う(この点で、WSJがニューズ・コーポレーション傘下に入った事実とも無縁ではないだろう)。もちろん、標準化には、利用者に一定の使用方法を強いる、という点で、マイナスの点もある。しかし、日本企業(特に情報通信関連)は、この20年、標準化で煮え湯を飲まされることが多々あった。そして、それは、情報自体をいわば仮想的な物質と見なす、情報流通の世界でも起こり始めている。

鍵は、もちろん日本語だが。
しかし、日本をとりまくアジア諸国を見れば、母国語と英語の二重利用は、ホワイトカラーの世界ではほぼ常識化している(それも、NY滞在中に実感したことだ)。

・・・と、ちょっと話が大きくなりすぎたか。

発端に話に戻すと、WSJのリニューアルは、アメリカにおいて、ニュースサイトの形式的な標準化があらかた済んだということを含意するだろう。ここから先は、また、取材力、情報編集力、といったジャーナリズム機関としての基礎体力によるつばぜり合いに移行すると思われる。この点は楽しみだ。

*

最後に、日米のジャーナリズムの構造の違い、ジャーナリストの心性の違い、については、最近出された、上杉隆『ジャーナリズムの崩壊』が参考になる。私はジャーナリストとしての経験はないがジャーナリズムに比較的近い職場にいたし、私の行ったコロンビア大学院には、IMC(International Media Communication)という専攻があり、ジャーナリズムやジャーナリストとも近かった。Columbia Journalism School(ピューリツァー賞の選考母体でもある)も近かった。上杉本は、そうした経験から得た実感をうまく言語化してくれている。