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January 31, 2007
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junichi ikeda

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「シェアリング」

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January 31, 2007 14:36 jst
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SNSという記号的命名が流通することで、行為として「シェアリング」がネットの上では一般化している。

MySpaceにしてもYouTubeにしても、利用者の間での「共有」を促すことで、アクセス数を増やしてきた。

ただ、両者とも、コピーライト上、グレーなものを含むからか、提供する側としてユーザー登録をさせることが目立つ。アメリカの場合、こうした事業者は、セーフハーバー条項に触れないぎりぎりのラインをオペレーション上は歩きながら、立法措置による公的な規制強の地雷を踏まないように、「言論の自由」を援用したPR活動をサポートしたり、公的機関が規制に乗り出さないよう、民民の契約で予め紛争の芽を摘もうとしたりする(レベニューシェアや包括的許諾の申し出だったり)。

それはそれで、プラットフォームとしてはわかる。

一方で、当の「共有」の当事者たちの間でも防衛策が講じられつつあるようで、それはひとつには、こうしたサイトを利用しているうちに一回は経験する、「あなたも私の友達になりませんか?」という誘いの通知。

これで仲間内になることで、仲間内での共有に限りながら、何とか自分たちの利益を共通に守ろうとする動き。情報の提供も、部分的には暗号化して、データの所在も一般的な監視の巡回を免れるようにする。

これは、一般の社会でも行われていることだけど(本やCDやDVDの貸し借り、ってしますよね)、これが微妙に匿名性を保持しながらも仲間としての内と外を境界づけていくところが、面白いと言えば面白い。

ここで、突然、話は横道にそれるのだが、こうした振る舞いは、阿部和重『シンセミア』の中の、ビデオ鑑賞同好会のことを想起させる。作中で、主人公を中心としたビデオ鑑賞同好会の面々は、いわゆる盗撮映像を仲間内だけで楽しむ。そのためにしきりと「自分たちは友達だよな」という確認を繰り返す。仲が悪い人間も含めて。

(作中では、盗撮は、容易に監視機構に変容し、住民のプライバシー=恥部をさらけ出す装置に転じていくのだけど、それはまた別の話。)

「友達」の意味合いもこうして変わるのだろうな。一般的には、こうした統制の強い仲間内は、体育会系といわれる。でも、実際には、むしろ、「男子校・系」「女子校・系」という捉え方の方が正しいような。

その一方で、「共学的なグルーピング」というのは、なかなか表現されない。
(最近だされた、奈須きのこの『DDD』にはそうした感じが描かれてはいるのだけど。不思議なのは、そうした表現は、たいていの場合、居酒屋でのコンパ、のような姿になる。裏返すと、居酒屋的ふれあいが、共学的な世界になるのかね。これは、素朴すぎる視点だけど。)

とまれ、シェアリングの後ろにある、《友達》的圧力は気になるところ。

これは、アンダーグランドが、アンダーネットに移行する中で生まれてきている動きにも思える。

なべて「不可視」の世界が広がるのが、これからの趨勢なのか。
そのとき、気づきとしての「可視性」は必要になる。

次に考えるのは、界面=インターフェース、に関わるものか。