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先月(2006年12月)から、講談社からKODANSHA BOXと称して、いわゆるラノベ系の作家が毎月一冊ずつ新作を出していくプロジェクト(?)がスタートしている。
清涼院流水、西尾維新、といったメジャーどころから、奈須きのこのようにカルト的な書き手までが加わり、月一で、1000円から1500円ぐらいの値段で、それぞれの新作をだしていく。
これは、売り出し方としてうまいなぁ、と思う。
2000年代に入って、文芸誌は営業的にはかなり厳しい。その中で、講談社は、ラノベ系の書き手を中心に『ファウスト』という、ちょっと新手の文芸誌?を刊行していた。
けれども、結局のところ、客は作家につくということで、寄せ書き的に小説を掲載する文芸誌の形式よりも、ダイレクトに作家単位で、文庫以上ハードカバー未満、雑誌と書籍の中間領域を狙うような、今回の方式を採用したように思う。
文芸誌の場合、実はその購入には「投稿」という要素が大きな要素を占めていた。今日的には、コミュニティと読み替えられる、「投稿」がもっていた機能は、文字通り、ネットの上にゆるやかにかつ揮発的に登場してしまう。
こうした状況を想定して、文芸誌の投稿部分はネットへ、作品の部分は、ダイレクトに作家単位の出版で、対応してしまおう、というのだろう。
だから、ネットが普及た状況では、全てのものに不可視な糸がついていて、何らかのかたちで緩やかに何かとつながっている、という感覚(実際にそれがネットの中での投稿もどきのブログだったり、2ちゃん的なものになるのだが)を土台にしさえすれば、もはや文芸誌というかたちで全てを綴じておく必要はない、ということなのだろう。
だから、KODANSHA BOXの動きは、とても今日的な活字文化の場を提供しているのだと思う。比喩的にいえば、ポータルが瓦解して、サーチとディスティネーションに二極化していくのと似ている。
問題は、毎月一冊、という、千本ノックのような状況に耐えうる作家がどれくらいいるか、ということになるだろう(実際、年間12冊も書けるのは西尾維新や清涼院流水ぐらいという、噂は絶えない)。
もっとも、一回ぐらい破綻したところで、それでもこのBOXシステムは維持してみせる、という気概で行われれば、作家のサポートを含めたシステムが稼働するようにも思える(この部分、もう少し考えてみます)。
そう思ってみると、先日、yomuyomuという文芸誌を出した新潮社は、ちょっと周回遅れな気がする。新潮文庫の百冊という定番ドル箱があるからだろうけど、かつてもコミック誌の創刊に乗り遅れたりと、ちょっと新しいものへの対応が遅れ気味。(一方で、新潮クレストシリーズはとてもすばらしいと思っているので、新潮社もお気に入り出版社であることは付け加えておきます)。
マンガ、アニメ、ゲーム、といったジャンルは、スクウェアやGDHや角川と、2000年代に入って、上場という選択肢を取って以降、成長=環境変化への対応、を指向することで、新しいジャンルや様式開発に精を出しているし、実際、それで、映画もアニメも制作本数が増え、その結果、原作となるマンガや小説に注目が集まるようになった。結果的には、ジャンルを飛び越えたり、ジャンルを継ぎ合わせたりするタイプの作品も登場するようになった。
まさに、量は質に転ずる。そうした事態が生じている。
もちろん、異種交配には抵抗を示す人も多いとは思うけど、でも、変なたとえかもしれないけど、ツナマヨのおにぎりってもはや今日では当たり前でしょ、という感じでokになるのが、イノベートってことなのではないかと思う。
ってかんがえると、講談社あたりは、あと10年くらいたったら、ハリウッド的なシステムを稼働させていたり刷るのではないかと想像してしまう。
もう少し、このネタは、考えます。