2026年3月4日、連邦上院議員候補を選ぶテキサス州の民主党予備選で、州下院議員のジェイムズ・タラリコが勝利した。下馬評では当初優勢だった、連邦下院議員のジャスミン・クロケットを、得票率にして52%対46%の6ポイント差で打ち破った。
ジャスミンは、歯に衣着せぬ物言いで注目を集めてきた黒人女性議員で、直前には同じく黒人女性のカマラ・ハリス前副大統領からの支持も得ていた。今回の予備選でも、ダラスやヒューストンなど、保守的なテキサスの中でも伝統的にリベラルの多い都市部を中心に黒人からの高い支持を得た。
対してタラリコは都市部よりも郊外、いわゆる「ルーラル」と言われる田舎を中心に票を集めた。タラリコ自身は白人男性だが、前職が公立学校の教師で、長老派の信仰も厚いクリスチャンだった。それもあり、白人だけでなくヒスパニックからの支持も得ることができた。
タラリコの勝利には、人気コメディアンのスティーブン・コルベアがホストを務めるCBSの『レイト・ショー』での出演が急遽中止になり、この事件によって彼の全米での認知度が一気に高まったことも無視できない。
この事件の詳細については書き始めると長くなるのでここでは控えるが、簡単に言うと、テレビ周波数免許の監督者であるFCCからの圧力にビビったCBSがタラリコの放送を中止したが、それに立腹したコルベアが、どうせ番組の放送も(FCCへのCBSの忖度から)今期いっぱいで解約されたしな、と思ったからか、FCCの監督の及ばないYouTube版で未放送だったタラリコの出演部分を(放送でなく)配信し、それがタラリコへの注目を一気に高めたのだった。
ローカルの選挙であっても気分はナショナルなのが、ソーシャルメディア以後の、簡単に全米がつながる時代の選挙キャンペーンの特徴だが、そのフレームに上手くタラリコはハマることができ、一気にブーストした。
実際、インターネット時代の政治における「バイラル」のメカニズムを熟知しているジャスミンは(なぜなら彼女もそれで成り上がったから)、この「レイト・ショー」の一件には直後から不満を漏らしていた。当初圧倒的に優勢だった彼女が負けたため、彼女はきっと今頃CBSとコルベアを恨んでいることだろう。
もっとも、もとを辿れば、テレビ放送の番組内容に周波数免許を理由に介入しようとするトランプ2.0のFCCのせいなのだけれど。
ただ、タラリコの勝利をもっぱらこのCBS事件のせいにするのは、なにかと事態を見誤ることになる。
というのも、今回の予備選は、結果から見れば、プログレッシブの黒人女性よりも、モデレートで信心深い白人男性を、自分たちの代表にしたいと思う有権者が多かったということだからだ。黒人女性疲れ、あるいは黒人疲れ、という傾向がなんとなく現れてきためのようにも思われる。
2010年代のアメリカが黒人大統領のオバマのお陰でブラックパワーを言祝ぐ時代であり、実際、ポピュラーミュージックの世界はヒップホップがロックを越えて全米のヒットチャートを沸かした時代だった。これに対する一種の反動、バランス感覚の反映と言えばよいか。
その意味で、ここで注目したいのは、予備選活動中のスピーチでタラリコが何度か語っていた次の言葉だ。
「唯一アメリカを破壊しているマイノリティはビリオネアである」
この言葉は、言っていること自体はいわゆる「1%対99%」の議論で、要するに、金持ちが政治家を使って勝手して普通の人たちの生活を圧迫している、ということなのだけれど、その語り方として政治家やジャーナリスト、あるいは大学教授のような人がよく使う「オリガーキー(寡占制)」のような「ビッグワード」を使っていないところが特徴的だ。
そうではなく「マイノリティ」という言葉を使うことで、ビリオネアたちを「ズルをして特権を貪る少数派」と位置づけ、それを同じくマイノリティの「一般人」や「ヒスパニック」、あるいは「白人男子」が結集して正そう!という気分にもっていっている。
ソーシャルメディア時代の特徴は、社会が停滞をしていることからの煽りも含めて、自意識のレベルでは「マイノリティ」だと思いこむ人が多いことだ。その主観的な現実に、タラリコの言葉はスッと入っていく。それは、彼が、学校教師だけでなく長老派の説教の薫陶も受けているからなのかもしれないが、とにかく、ひところあった「コントラリアン=逆張り」な発言とは一線を画した話しぶりなのだ。
そのうえで彼は、「新しい政治をつくろう」とあっけらかんと嘯くところもある。気が早い民主党の選挙対策チームが、タラリコを将来の大統領候補のリストに加えたい、といい始めていることも納得できるところだ。
もちろん、本当に大統領候補のリストに載るには、11月の選挙で勝利し、30年ぶりにテキサスから選出された民主党の上院議員になる必要がある。なにしろ、同じように期待されたテキサス人にはベト・オルークという先輩がいるからだ。連邦下院議員を務めた後、上院議員戦でテッド・クルーズを追い詰めたベトは、一時期、オバマの再来と期待され、2020年大統領選の民主党予備戦に立候補したものの、一度もパッとしたところが見られず、そのまま消えてしまった。その後も粘り強くテキサスで民主党の基盤を強化するべく自主的に活動を続けているものの、その後のベトについて芳しい話は聞こえてこない。
だから、タラリコも、ベトの二の舞いになる可能性を否定できない。
ただ、その一方で一つ面白いと思うのは、タラリコが、あれだけ世俗化にこだわってきた、つまり政治への宗教の関与を遠ざけてきた民主党の中で、むしろ積極的にキリスト教の信仰心に訴えているところがあることだ。それは、今の「停滞したアメリカ」、人心が疲弊したアメリカ社会だからこそ通じる言葉のように思える。
というのも、かつて同じく民主党の将来の大統領候補として名前が挙がった人物に、『ヒリビリー・エレジー』を上梓した直後のJDヴァンスがいたからだ。当時のヴァンスは、トランプを公然と非難するリベラルのひとりと思われていたが、その後彼は一度捨てた信仰をカトリックに改宗することで取り戻し、そのまま、西洋文明の崩壊や白人の衰退を憂えるカトリックとして、信仰心を政治に取り入れる共和党に転向した。
だから、きっとミレニアル世代には、社会の困難さから、自然と、救済を求める言葉を社会の指導者に求める傾向があるのだと思う。同じくミレニアルのピート・ブティジェッジもAOCも似たようなトーンで人々の心を掴んでいる。こうした「信仰との寄り添い」を、若い世代の(といってもミレニアルももう40代になるのだが)政治家たちは有権者とのコミュニケーションで自然に出てくる言葉だと感じている。
そして、その点で、ジャスミン・クロケットのような、黒人の「権利」や女性の「権利」を主張する、あるいは、そうした「権利拡大」が連想される人物は、少し、今という時代からズレ始めてきているのかもしれない。
少なくとも2020年代以降のアメリカの政治状況を見ていると、かつてあったような黒人、ないしは黒人女性が、他のマイノリティの利益も代弁する「マイノリティの代表」という社会的な了解は減ってきているように思える。
その点で、数としてのヒスパニックの増大や、成功したマイノリティとしてのアジア系の社会進出は、アメリカ社会における「マイノリティ」の意味やイメージを変質させている。ニューヨーク市長になったゾーラン・マムダニもそうだが、戦闘的なブラックに対して、融和的なムスリムというイメージも広がりつつあるように思える。
一つ補足しておくと、アメリカでアジア系というと、インド系やパキスタン系の南アジアからの移民のイメージも強い。中国や台湾、韓国、そして日本、の東アジア系だけがアジア系ではないことは、日本人はともすれば忘れがちなので気をつけたほうがいい。そして、パキスタンまでくれば中東の西アジア、すなわちアラブ系もアジアのカテゴリーに入ってくる。
こう見てくると、今回のタラリコの台頭・勝利も、単にバズったから、ということだけではなく、背後にアメリカの「マイノリティ」を巡る内部力学の変化も反映されていると考えられるのではないか。その「マイノリティの語法」の微妙な変化を汲み取って、タラリコは、ビリオネアすら「特権階級」ではなく「チートしているマイノリティ」と位置づけた。そう思ったほうが良さそうだ。
その意味では、タラリコのスピーチで、これからの政治は「右対左」ではなく「トップ対ボトム」だと言ったのも、よくある「上対下」という、プログレッシブが好む「階級(クラス)の対立」の話ではなく、どこまでいっても同次元、同一線上にある「マイノリティグループ」の間の対決であると解釈すべきなのだろう。
つまりは「水平的な対決」。
それはともすればビリオネア支配をオリガーキーと呼び、そこから「ネオ封建制」という言葉を使うことで、金持ちと貧乏人、というコンプレックスに訴える、あるいはコンプレックスゆえに諦めさせるような「垂直的な対決」から逃げ出し、正しくアメリカ的な、理念の平等社会から始まった「デモクラシー」、つまり「市民主権」――「国民主権」とは微妙に異なる「オレ様」感を伴う政治態度―――を実践するためのレトリック=政治技術なのかもしれない
タラリコの予備選の勝利をそこまで読み込みのは、もちろん時期尚早かつ牽強付会なことだろう。それでも、そうした小さなさざ波からビッグウェーブが巻き起こるのがアメリカ社会のままならないところだ。オバマもトランプもそうだった。次の11月にはなにかしらの新たな動きが見られるのかもしれない。少なくとも政治家の若返りは図られることだろう。