このところ、立て続けに今年のアカデミー賞を争った『ブルータリスト』と『アノーラ』を観たのだけど、いやー、ハリウッド、大丈夫か?と思ってしまった。
『ブルータリスト』は、第2次世界大戦中にハンガリーからアメリカに亡命してきたバウハウスで学んだユダヤ人建築家ラースロー・トートの半生を描いた210分という長尺の作品。
『アノーラ』は、現代のニューヨークでセックスワーカーとして働く女性アノーラが、ロシアのオリガルヒのボンボンと契約セフレとなり勢いでラスベガス結婚をしてから、その結婚に激怒した親(主には母親)がロシアから襲来するというドタバタ劇。こちらも140分という長さ。
で、アカデミー賞の受賞は、『アノーラ』が作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞など5冠を達成した。一方、『ブルータリスト』は主演男優賞など3冠を獲得し、完全に「2強」という結果だった。
それならば、ということで観てみたのだけど、正直、どちらもピンと来なかった。
というよりも、なにをこんなにダラダラとした長尺の作品をわざわざ映画館にかけているのだろう? と思ってしまったくらい。
他にオスカーを争っていたのが、『名もなき者』や『サブスタンス』等だったことも含めて、ハリウッド大丈夫か?と真面目に思ってしまった。
去年の『オッペンハイマー』の盛り上がりが嘘のような地味な作品ばかりで。
確かに『アノーラ』と『ブルータリスト』なら『アノーラ』かなぁとは思うものの、でも、オスカーを与えるほどのものか?という気がとてもして、単純に不作の年だったのだろうなと思った。
どちらの作品も、2016年公開の『ムーンライト』がオスカーを受賞したときから始まった、社会の暗部やタブーに光を当てる作品の流れのもので、つまりはA24が作った流れなのだけど。
なんていうか、作品として「主張」が必ずあるものばかりで、観ていて疲れるものが増えたという印象は拭えない。
というか、楽しくする、というベクトルが著しく欠けていて、しかもそれが長尺だったりすると、観終わったときにぐったりしてしまう。
もちろん、そういう映画があっても構わないのだけれど、問題はそれがその年を代表するオスカーを受賞する、というのはどうなのだろう?ということ。
内容が空っぽでただ楽しければいい、とまでは言わないけれど、もう少しバランスが取れててもいいのではないかということで。
いや、その点では確かに『アノーラ』は、中盤以降、ラスベガスの結婚を無効化しようとするロシアオリガルヒの息子の監視役たちが現れてから、コメディタッチのドタバタ劇にはなるので、多少はシリアスを解消しようとはしているのだろうけど。
ただそうしたドタバタ劇も、多くは「ファックユー」とか「ファックオフ」とか罵倒用の4レターワードが飛び交うだけの罵りあいばかりで、中身のないやり取りが延々続いて飽きてしまった。
どうやらそういう、いつまでもしつこく同じようなことを繰り返すのは――いわゆる「大事なことなので2度いいました!」というやつ――、最近「ニューリテラリズム(新字義主義)」というらしい。配信を含め早回しやスキップされることが多いから、物語の流れを見失わないように、あらかじめ強調箇所を増やして、確実にプロットを追ってもらうようにするためだという。
要するに、映画の多くがストリーミングで観られるようになったことをあらかじめ読み込んだうえで脚本が作られている。
カラオケが流行ったら歌のつくりがサビから始まるようになった、というのと同じことらしい。
確かにそう言われればそういうものなのかもしれない。
しかし、そうなら、もう映画館で公開するなよ、といいたくなってくる。
これまでの映画は、あくまでも、鑑賞者のリニアな視聴形態は一応固定されたまま、脚本上の技法として、作中時間のノンリニアな操作が施されて、手の込んだ物語が作られていった。
その典型が、2023年公開でオスカーを受賞した『エブエブ(エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス)』だったわけだけど。
でも、『エブエブ』は、主題のシリアスさをバカバカしさで笑い飛ばすスラップスティック感があったので、最後まで楽しめた。
緩急を使い分けていたから。
でも、今回の『アノーラ』は(そして『ブルータリスト』も)、そのようなサービス精神は皆無だった。
その意味では、まだ『ブルータリスト』のほうが、これは全編シリアスな話だぞというオーラが映画冒頭から滲み出していたので我慢はできたけれど、『アノーラ』のノリは厳しかった。笑いが完全に滑っており、だからといって、その滑り具合を、制作者が狙ってやっているようにも見えなかった。つまりは本気で滑っていた。
ということで、おいおいハリウッド、大丈夫なのか? と久しぶりに思ってしまった次第。
うがった見方をすれば、シリアスをシリアスなままでやり通すという表現のモード自体が、それこそ「政治は文化、文化は政治」のキャンセルカルチャー時代の「文化とはトライブのものであって、マスカルチャーなどとうの昔に絶滅している」ということを象徴しているのかもしれない。この作品を介して新たにオーディエンスを引き入れるということをほとんど期待できないから。鑑賞者のグループは事前に確定している。
ただそれを映画にまで適用されると、そうとう息苦しくなる。
もはやMARVEL作品にも2010年代のような勢いはないし、そもそも全てがディズニープラスに囲われてしまったので、ちょっとあの作品、見返すか、ということもできない。
ブルーレイでレンタルできた時代は本当に幸せだったな、と思ってしまう。
今無性にクローネンバーグ祭りをしたいのだが、昔のようにTSUTAYAに駆け込んで見繕う、ということもできず、困ってしまう。
なんだかとりとめのない書き方になってしまったけど、要はハリウッド大丈夫か?ということ。
どうやらそのヤバさの多くが、ストリーミング化の余波、一種のコラテラルダメージとして起こっているように見えるのが、どうにも「出口なし」感があって切ない。
A24化の功罪とか、それを用意したHBOのテレビドラマシリーズの「ディフィカルト化」とか、いろいろと書きたいことはあるけれど、それはまた別の機会に。