ネット中立性の終焉が暗示するイーロン・マスクのDOGEの野望

latest update
January 03, 2025 11:31 jst
author
junichi ikeda

アメリカで、ブロードバンドプロバイダーを電話会社同様、コモンキャリアとみなす「ネット中立性(net neutrality)」のルールが、事実上、廃止されることになった。

Net Neutrality Rules Struck Down by Appeals Court
【New York Times: January 2, 2025】


シンシナティにある第6巡回区控訴裁判所は、2025年1月2日に出した判決で、連邦通信委員会(FCC)には、ネット中立性を強いるだけの権限がない、という判断を示した。

理由は、昨年6月に最高裁が下した「ローパー・ブライト・エンタープライズ対ライモンド事件」の判決だった。この「ローパー・ブライト」判決では、いわゆる「シェブロン・ドクトリン(法理)」の廃止が宣言された。シェブロン・ドクトリンは、過去40年間に亘り、連邦政府機関が、議会が制定した詳細な連邦法がない場合でも、監督する業界の技術規制を設定することを広く認めてきたものだった。

6月に最高裁がシェブロン・ドクトリンを覆した際に懸念されたことは、まずは環境庁(EPA)が定めてきた環境規制が軒なみ無効化されることで、環境行政のこれまでの常識がひっくり返る事態だった。

今回、このローパー・ブライトの判例が、通信業界を監督するFCCに対して適用され、FCCにはネット中立性をブロードバンドプロバイダーに強いる権限はない、と第6巡回裁判所に判断された。この結果、事実上、ネット中立性ルールの復活の道は閉ざされた。事実上というのは、最高裁に上告したところで、当の最高裁が、半年前にシェブロン・ドクトリンを覆したばかりなのだからFCCに勝ち目がないことは明白だし、そもそも最高裁が上告を審理に値するものとして受理する可能性も低いからだ。

もともとシェブロン・ドクトリンの撤廃は、共和党の政治家たちがドナー(政治献金者)たちからの要請で長年に亘って試みてきたことだった。それが、共和党系判事が6名と超多数派になった最高裁で実現することになった。

シェブロン・ドクトリンの撤廃によって、先述のように、連邦政府の各種機関が、その監督権限の下で運用してきた行政ルールの多くが無効化されていくわけだが、この動きは、表向きは、執行府(行政府)から立法府=議会へとルールメイキングの権限を取り戻すことで、行政官という選挙で選ばれたわけではないエリートから、選挙で選ばれた議員へと権力を取り返すわけで、それはすなわち、そうした議員たちを選出した有権者、すなわち「アメリカ市民(The People)」に政治の力を取り戻すことを意味する。少なくとも共和党の建前はこのようなものだった。

もちろん、本当の理由は、産業界の支持者たちから、うるさい行政監督機関のルールを外してほしいという要請があったからなのだが。それでも、表向きは、立法府に権限を取り戻すという建前を通した。

これは、もちろん、今日的なポピュリズムの動きにも呼応している。だから、シェブロン・ドクトリンが廃止された後に広く報道された懸念は、専門家による「科学的なルール」が撤廃される一方、人びとの人気だけで選出された専門知識のない議員たちにその代わりになるルールを本当に制定できるのか、という疑念だった。これはもっともな懸念で、普段、METAのザッカーバーグらが召喚された議会公聴会における議員のとんちんかんな質問の嵐を見ている人たちからすれば、心配は募るばかりだ。

ただ、それでもこれはポピュリズムにアメリカ政治が占拠された結果とも言える。

日本で言えば1990年代に起こった、官僚憎しの行政改革や省庁再編の動きに似ている。それくらいアメリカの「庶民」の怨嗟が、ワシントンDCのエリート行政官に向けられているということだ。これも90年代日本にあった「霞が関批判」の動きと照応している。

ということは、今回の「ネット中立性廃止」の動きは、トランプ政権でまさにその「行政改革」の担い手となるDODGEのトップであるイーロン・マスク(とヴィヴェック・ラマスワミ)の動きを暗示するものである。

当該機関に権限がないのだから、これほど多くの専門行政官を雇う必要はない、だから人員削減できるだろう、というロジックだ。

こうしてアメリカは、第2期トランプ政権によって、小さい政府どころか、そもそも政府無用の「無政府」の世界へと移行していくのだろうか。