映画『ツイスターズ』、想像以上にトランピーだった!

latest update
December 01, 2024 18:04 jst
author
junichi ikeda

ストリーミングで見られるようになったので、映画『ツイスターズ』を観た。

90年代のヒット作『ツイスター』の続編を、韓国系移民一世の苦悩を描いた秀作『ミナリ』のリー・アイザック・チョンが監督したというから、実は結構楽しみにしていたのだが、実際に観てみたら、想定外のところでやられてしまった感が強くて、ちょっとビックリ。

上で「続編」と書いたけれど、正確には「フランチャイズもの」で、要するに、映画『ツイスター』の設定やプロットは基本的に踏襲するものの、細部の作り込みは新しい製作陣の自由な解釈に委ねられたものとなっている。

だから、「リメイク」と思っておけばよい。

で、その肝心の基本プロットだが、それは大まかにいえば、トルネードが頻繁に襲来するアメリカの南西部オクラホマで、気候学を修めた女性博士が、彼女のスタッフを引き連れ調査に向かうのだが、その先で、実際に巨大トルネードに襲来され、なんとか逃げ延びる、というもの。

トルネードを怪物だと思えば、一種の「モンスターもの」のパニック映画、ないしはホラー映画。

実際、オリジナルの90年代の『ツイスター』は、最初から最後まで息つく暇を与えないほどに話がどんどん流れていくジェットコースターのような構成で、一度観始めたら一気に最後まで観ないではいられない、エンタメ映画の秀作だった。

その構成については、以前上梓した『デザインするテクノロジー』でも触れたことがあるけれども、一言で言えば、2000年代以降、ハリウッド作品でも一般化した「ノンリニア」な複雑なプロットではなく、とにかく「リニア」な一気見できる作品だった。

それに対して、今回の『ツイスターズ』は、まさにその「ノンリニア」なフレームが侵食してきていて、時折、回顧シーンを含みながら、一歩一歩回りを確認しながら進んでいく、というタイプの展開だった。普通に、序破急、といっていい展開。

もっとも、『ツイスターズ』を観て驚いたのは、こうした現代的なノンリニアな行つ戻りつのプロットではなく、もっと物語全体を決めるキャラ配置の部分だった。

端的にいえば、とてもトランピー(笑)。

なにしろ、主人公のオクラホマ出身の女性博士ケイトの相手役が、黒人→ヒスパニック→白人、と移っていくのだから。最後に勝つのは、テンガロンハットを被ったカウボーイなのだ。

ケイトが学生時代に付き合っていた相手である黒人ジェブ(演じた役者はアイルランド系とアフリカ系のハーフ)は映画冒頭のトルネード襲来であっさり暴風に攫われてそれっきり。5年後、ニューヨークで再会したもう一人の生存者である男性のハビはヒスパニックで、事件のショックで何をしていいかわからず、とりあえず卒業後は従軍していたという。

で、最後のに登場するのが、レッドステイトど真ん中の南部アーカンソー出身のいわゆる「ヒルビリー」。テンガロンハットをかぶった、一見してチャラいカウボーイ(笑)で、生業はユーチューバー(笑)。ちょっと怪しい仲間とともに車でトルネードの中心に突っ込み、嵐の状況をテンション高く「配信」することで生計を立てている。

もうこの設定だけで、お腹いっぱいになってしまいそうなのだけど、このカウボーイの「タイラー」を演じるのが、当代の伊達男俳優の一人グレン・パウエルだったりする。そのため、彼が出てきた時点で、あ、このひと、絶対最後まで生き残るわ!と思わないではいられなかった。

で、この、「ハブvsタイラー」の対比が、「ヒスパニックvs(ヒルビリー)白人」や「大学知性vsストリートワイズ」、「政府所属vs民間叩き上げ」といったものになっていて、要するに「デモクラットvsリパブリカン」の文化戦争の当事者どうしのようなコントラストになっている。

しかも、このマイノリティヒスパニック男性とマジョリティヒルビリー白人男性が奪い合う相手であるケイトは、(レッドステイトの)オクラホマ出身でありながらその田舎町から進学し、大学院で気候学を専攻し、(その過程で恋人を含む仲間3人を亡くしながら)卒業後は、(ブルーステイトの)ニューヨークはマンハッタンで、トルネード警告の政府機関で働いていた、というキャリア女性。

わかりやすくいえば、オクラホマの田舎出身の女性が、(デモクラットのイメージの強い)高学歴の東海岸野郎たちの間で知的キャリアの道を歩んだのだけど、でも、やっぱり自分に合うのは、同じ田舎者のヒルビリーな白人野郎だった、という流れ。


で、ハビからタイラーに目移りするのにも、実はそれなりに正当な理由が用意されている。

学生時代とは異なり、ケイトがトルネードの現場調査を避けたのは、もちろんかつての仲間の喪失が影を落としているからなのだが、その彼女にもう一度、現場行きを誘ったのが、研究スポンサーを得て、トルネードの状況の3D把握の技術開発を進めている、かつての仲間ハビだった。

ただ、この研究スポンサーというのが、実は不動産開発会社のオーナーで、どうしてこの調査研究に出資したかと言うと、研究目的でトルネード襲来の現場にいち早く駆けつけているハビたちならば、トルネードの災害にあって土地家屋を亡くした人びとに即座に接触することができ、それら土地家屋の事後処理のところで、出資者の不動産会社経営者がビジネス機会を得ることができるから、ということだった。

要は、一種のハゲタカで、そうした被災者たちから不動産を(結果的に)巻き上げて、一儲けしようと企んでいるわけだ。

その結果、ハビたちは、一種の「偽善者」として描かれており、実際、その事実に途中で気付いたケイトは、ハビのチームから脱退することを選ぶ。というか、逃げ出してしまう。

で、逃げ出した先にいるのが、ヒルビリーの自由人で、ユーチューバーなタイラーだった、というオチ。

そういう意味では、彼が生計をユーチューバーで立てているという設定も、彼のスポンサーは一般市民の皆さんであって、ハビのように腹黒な不動産屋なんか関わっていない!ということも示唆している。

これはそれこそトランプが『アプレンティス』を通じて全米に訴えた「(レッドステイとの)君たち、ストリートワイズな諸君のほうが、東海岸の大学を卒業したからという理由だけで偉そうに君たちに接触してくるような連中よりも、遥かに優秀だし、実際的なんだ!」という「トランピー」で「MAGA」なメッセージの確認であり反復のように見えてくる。


ともあれ、まぁ、こんな具合に、この『ツイスターズ』という映画は、トランピーなフレイバーで溢れている。

もちろん、だからダメだ、なんてことは言わないけれど、でも、とにかく、このわかりやすい対比ぶりには、一見して驚いてしまった次第。

実は、タイラーのグループは、ユーチューバーで得た収益や、関連グッズの売上を使って、被災地の支援を現場で行っていたりする。となると、ユーチューバーをするのも、そうした「半分自分のため、半分他人のため」に使うお金を調達するためのように思えてくる。

つまり、一種のファンドレイジングで、ちゃんとその金を人びとに還元することも忘れない。

物語が進むと明らかになるのだが、カウボーイをしていたタイラーも実は大学には行っていて、そこで学んだ知識や人脈を彼なりに世の中に還元するためにとって手がユーチューバーだった、ということで。

要するに、トランピーな建付けの背後にちゃんと、感情的にも理性的にもタイラーのような人物が誕生する理由が描かれているようにも思える。

で、こうなってくると、むしろ関心は、あの『ミナリ』を監督したリー・アイザック・チョンが、どうしてこのような一見するとあからさまにトランピーなプロットの映画をつくったのか、ということの方が気になってしまう。

映画『ミナリ』については、以前、WIREDに映画レビューを書いたこともあるので、詳しくはそちらを読んでほしいが、基本プロットは、移民一世の韓国人がアメリカで苦労しながら、土地に根付いていくという話。その多くは、チョン監督の個人的経験に根ざしものだったと言われている。

今回、『ツイスターズ』を監督したのも、子どもの頃にみた『ツイスター』に驚愕したことが大きかったというから、今回の『ツイスターズ』のプロットにも、彼の個人的体験が込められていると考えるのが妥当なのだろう。

たとえば、最後にトルネードに襲われた人びとが逃げ込むのが、田舎町の繁華街のアイコンである「映画館」であったのも、チョン監督のノスタルジアのなせる技だったのかもしれない。

それだけに、この『ツイスターズ』の、なんともいえない「トランピーな空気」が、どこから来たのかが気になる。単に、映画製作のゴーをもらうために必要だったのか、それともチョン監督の南西部の感性からしてこのプロットがナチュラルなものだったのか・・・。


なんにせよ、まさか、『ツイスターズ』を観て、こんなにトランピーなアメリカについて考えさせられるとかは思ってなかったけれど。

気になるひとは、ぜひ、『ツイスターズ』を観てほしい。

前作、というか、オリジナルの『ツイスター』をあわせて観ることで、その対比から、この30年間で、アメリカの「クリエイティブ感性」がどのように変化したか、実感することもできるだろう。

それはつまり、多くの創作物が、文化戦争の現場になった、ということだし、裏返すと、創作者は、大なり小なり、文化戦争にコミットしないでは新たな作品を生み出すことはできない、ということでもある。

『ミナリ』のあとに『ツイスターズ』を観ると、そう思わずにはいられない。それくらいアメリカが世知辛い世界になった、ということなのだけれど。