Facebookの創業者&CEOのマーク・ザッカーバーグが、2017年5月25日、母校であるハーバードの卒業式でスピーチを行った。テーマは「ポーポス(Purpose:目的)」であった。
Zuckerberg tells Harvard we need a new social contract of equal opportunity
【TechCrunch: May 25, 2017】
なおスピーチはここで見ることができる。
Mark Zuckerberg Harvard Commencement Speech 2017 FACEBOOK CEO'S FULL SPEECH
よく知られるように、ザッカーバーグは、ハーバード在学中にFacebookを開発・創業した。Facebookが急成長する中、チャンスを逃さないためにハーバードはドロップアウト(中退)していた。ドロップアウトした者が卒業式で講演するというのも不思議なものだが、アメリカではよくあることで、2005年には、同じくドロップアウトを経験しているスティーブ・ジョブズがスタンフォードの卒業式でスピーチを行っていた。“Stay hungry, stay foolish.”という言葉で締めた、あの有名なスピーチだ。
もっとも、今回、スピーチを始めるにあたって、ザッカーバーグは“Dr. Mark Zuckerberg”と紹介されていた。卒業式の前に、彼自身、名誉博士号(Doctor of Law)を授与されていたからだ。これもまた珍しいことではなく、ちょうど10年前の2007年にビル・ゲイツも、Microsoft創業時に同じくドロップアウトしたハーバードから名誉博士号を授与されていた。
ともあれ、いわば直前の駆け込みで「博士号」を得て、晴れて「ドクター・ザッカーバーグ」として、第366回目のハーバード卒業式で祝辞を送ったことになる。
ところで、ここまで「卒業式」と書いてきたけれど、アメリカでは“Commencement”という言葉が使われる。辞書を引けばわかるようにCommenceとは「始める」の意味なので、「卒業」のように「全課程を終了した」というニュアンスよりも「何かを始める」というニュアンスが強い。つまり、「卒業式」というよりも「発進式」とか「進水式」という意味合いだ。文字通り「社会への門出」に向けた言葉であり、これから社会に出て活躍する若い同胞に送る言葉なのである。
その言葉としてザッカーバーグが選んだのが「ポーポス」だった。Purpose、すなわち「人生の目的」、「生きる目的」だ。ザッカーバーグは、最後に「あなたの目的を(神の)祝福とする勇気をもて」という趣旨でスピーチを締めていた。
ザッカーバーグのスピーチは、ハーバードのみならず、(世界中の)ミレニアル世代に向けたものでもあり、今年33歳の彼は――33歳でのコメンスメント・スピーチはハーバード史上、最年少であるという――、彼らの世代で「新たな社会契約(social contract)」を提起していこうと主張していた。それは、広く「機会/チャンスの均等」を人びとに約束するものであり、地球が破壊される前に温暖化を解決しようであるとか、ガンに代表される致死的な病を撲滅するよう努力しようというものだった。
これらのソーシャルミッションは、スピーチの中でザッカーバーグも触れているように、彼が設立したChan Zuckerberg Initiativeですでに試みていることでもあり、それを広くみなで進めていこうということでもある。また、ザッカーバーグは今年の2月に、Facebookを通じてGlobal Communityを築いていこうという趣旨のレターを自らのFacebookアカウントで公開している。こうしたフィランソロピストとしての信念を、今回のスピーチでも強く説いているわけだ。
「ポーポス」をテーマにしたのもそれが理由である。一人ひとりが自分の人生で何をすべきか、その目的を問うことで、意味のある一歩を踏み出せると強く信じているからだ。ザッカーバーグからすれば、単なる「前進(progress)」だけでは足りなくて、その一歩がどこに向かおうとしている一歩なのかが極めて大事なことになる。もちろん、何かを成し遂げようと思ったらとにかく一歩を踏み出さないことには始まらないこと、けれども、その「何か」が「何であるか」はまさに前進しながら、明らかにされていくことである。だからこそ、何を成し遂げたいのか、その指針となる「ポーポス」が必要になる。
となると、この「ポーポス」は型どおりに「目的」と訳すのではなく、むしろ「目的地」という一種の方向感覚のように捉える方がいいのかもしれない。目的地=destinationである。
それもあってか、ザッカーバーグは“Change starts local.”ともいっている。つまり、今時の〈変革〉とは、まずは小さく始めて、そこから(ウェブ時代に顕著なスケーラビリティを駆使して)大きく広げていくべきだ、と強調する。
そうして、自分たちミレニアル世代が、新しい社会契約を通じて新しい社会を作り出すことを呼びかける。
こうして今回の彼のスピーチを見てくると、ザッカーバーグも変わったな、と感じる。本人もスピーチの中で触れているように、10年前の22歳の頃の自分は「子ども(kid)」で、何が周りで起こっているかわからないまま無我夢中だったと告白している。実際、つい数年前でも、公の席での彼のスピーチは、ギークらしく早口で抑揚も子供っぽいものだった。けれども、今回のハーバードでのスピーチは、とてもスピーチらしく、適度に冗談を織り交ぜ、適度に聴衆にも呼びかけており、語りの緩急も使い分けられていた。声のトーンも落ち着いていた。抑制がきいていた。
もちろん、スピーチ原稿は、プロのスピーチライターの手を借りているのだろうが、それでも本人のデリバリー力がなければああはならないだろう。ということは、ザッカーバーグの中でも、確かに「ポーポス」を巡る意識改革が確実に図られつつあるのではないかと思う。
簡単に言うと、将来的に、直接的に政治の世界に進むことも考えてのことなのではないか。
半ば冗談のようにここのところ語られていることとして、ザッカーバーグが2024年のアメリカ大統領選に立候補するのではないか、という噂がある。次回の2020年ではなく2024年であるのは、その時であれば彼も40代になり、文字通り、ミレニアル世代が社会の中核を占めるようになるからで、その方が勝率も高まるだろう、という狙いもあるのだという。(といってもあくまでも噂だが)。
もちろん、ザッカーバーグが出馬するとしたら、それは民主党からになるのだろう。では、2020年の民主党候補はどうするのか?というと、これもまことしやかにささやかれているのが、(黒人女性でテレビメディアを中心に活躍するセレブリティの一人である)オプラ・ウィンフリーでいいではないか、というものだ。
今まではセレブリティ(というか芸能人)が政治家に立候補するのはそれなりに自粛モードがあったのだが、2016年に政治家無経験のドナルド・トランプが当選したことで、その禁も破られてしまった、ということのようだ。トランプでいいなら私でもできる、という空気も生じているし、実際のところ、ソーシャルウェブ時代に全米を相手にする大統領選とは、むしろ有名性を賭金にした争いであるというのが大方の理解になってきたからのようだ。
ともあれ、そうして2020年はオプラでやり過ごし、2024年に、満を持して不惑の年を迎えたザッカーバーグが立候補する、という筋書きだ。もちろん、その場合は、ザッカーバーグとFacebookの経営との関係も整理しなければならないだろうし、何より、今から8年経った時のメディア環境でソーシャルウェブがどれだけの位置付けになっているかも気になるところだ。
アメリカ大統領選に立候補すると、しばしば“Obama for America(オバマをアメリカ大統領に)”というように「立候補者の名前 for America」という言葉が使われるようになるが、それにならえば”Zuckerberg for America(ザッカーバーグをアメリカ大統領に)”という動きが起動したのが、今回のハーバードでのスピーチなのではないかと思えてしまう。彼に、名誉博士号が与えられたのも将来の政界入りのための箔付けだったのでないかと思えてくる。
なにしろトランプですら、最終学歴はハーバードと並ぶビジネススクールの名門ペンシルヴァニア大学ウォートン・スクールだからだ。学位の有り無しはいざというところで重要だろう。そうして、ニューイングランドの、ハーバードの、民主党支持に傾く革新派(プログレッシブ)の期待の星にザッカーバーグが持ち上げられ始めているということだ。
プログレッシブなハーバードの人びとにとって、いわばザッカーバーグは、次代のアメリカを担う「ライジング・スター」であり、将来の大統領選における「ジョーカー=切り札」の一つなのだ。
そして、こうした「ザッカーバーグ・フォー・アメリカ」の動きが、実はザッカーバーグ自身にとってもまんざらではないのではないか、と思わされる。というのは、彼がここのところ、全米各地の人びとの生活を見て回っているからだ。Facebookのユーザーの多様性を実地に肌で感じようとすることを目的にしているようなのだ。
Mark Zuckerberg’s Great American Road Trip
【New York Times: May 25, 2017】
面白いのはこの動きが、先のグローバル・コミュニティ建設を謳ったレターに対する批判として上がっていた、「オンラインだけで変革は起こせない、なぜなら人間はボディ(肉体)を持っているからだ」、という反論に答えるもののようにも思えるところだ(『サピエンス全史』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリも、こうした批判者の一人だった)。そのような批判にもザッカーバーグは真摯に向きあっているように思える。それくらい彼は「本気」といえるのだろう。
いずれにしても、ザッカーバーグが大統領となると、これはこれでアメリカ史に残るものとなる。なにしろユダヤ系初の大統領となるし、ファーストレディは中国系となる。もしもミレニアル世代の意識が、ザッカーバーグの言うとおり、国民としてのアイデンティよりも「世界の市民(citizen of the world)」であるのだとすると、まさに彼らの登場は、そうした「ミレニアル意識」の具現化になる。それも含めて、極めて興味深い。
しかしそうなるとFacebookという存在は、21世紀の世界を形作る上で無視できない苗床となっているように思えてくる。ソーシャルウェブという場が、21世紀の「公共性」の行方を想像する上でのフロンティアであるからだ。
ザッカーバーグはもとより、Facebookのボードメンバーには、トランプのハイテク懐刀となった観のあるピーター・ティールも名を連ねている。世界的なネットワークを創るだけでなく地球規模のコミュニティを建設しようと語る、明らかに民主党支持のプログレッシブなザッカーバーグがいる傍らに、アメリカ・ファーストを掲げるトランプを支持するティールが並ぶのだから。
ハーバードをドロップアウトしたザッカーバーグが大学で学ぶことを「機会の均等」の一つとして強く推奨するのに対して、スタンフォードでJD(法学博士号)まで取得したティールは、起業家になるなら大学など行くな、と主張し、10代のアントレプレナーに起業資金を提供する。ユダヤ系のザッカーバーグと、ドイツ生まれのティール。二人は、いちいち対照的で面白い。それこそ、ソーシャルネットワークの原義通りの「社交」の妙味がそこにはある。
さて、「ザッカーバーグ・フォー・アメリカ」、その動きは本当に実現するのであろうか。
もしも将来、そんな日が来たなら、間違いなく今回のザッカーバーグによるハーバードでのコメンスメント・スピーチは、その出発点となることだろう。他でもないザッカーバーグ自身の「進水式」に向けた言葉だったのである。あとから振り返れば、2004年の民主党大会におけるオバマの伝説のスピーチ、あのザッカーバーグ版となるのかもしれない。