2016年3月から2017年1月まで、WIRED.jpで連載してきた「SUPER ELECTION ザ・大統領戦」が、2月27日、青土社から出版されました。
正式なタイトルは、
〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生 ―ウェブにハックされた大統領選―
です。
(青土社のサイトはこちら。ちなみにアマゾンはここ。)
本日あたりから書店店頭でも見かけることができると思いますので、ウェブ連載で既読の人もそうでない人も、どうぞよろしくお願いします。
ウェブ連載との違いについては実際に店頭ででも本を手にとってもらえればわかると思うのですが、2016年の大統領選の経過・状況を、現在進行形で書きとめ分析し、その後の展開を、その都度その時点で想像し書き記してきた連載の性格上、連載時の本文に直接手を入れて改稿するのは、どうにも「後出しジャンケン」的な修正にならざるをえないように思えたため、本文の加筆修正は連載時の論理展開を損ねない範囲に留めました。
かわりに本文への註釈やコメント・補足というかたちで、「トランプ勝利後の視点」から見た2016年大統領選の解釈を試みています。その上で最後に総括として、書籍タイトルでもある「〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生」という論考を新たに書き下ろしました。
結果として、WIRED.jp連載時の、現在進行形の動きの記録を素材にした上で、その時の解釈や見立てに対して批評的に上書き/コーティングした形の、本文と批評が同居したようなメタな構造を伴う本になったと思います。
では書籍化にあたって、なぜこのような形態をとったかについては、これも新規書き下ろしである冒頭の「はじめに」で記したので、そちらを是非、見てみてください。
ところで、この1月からトランプ大統領によるアメリカ経営が始まっており、就任後、様々な軋轢・衝突などを含めて話題を呼んでいることは、すでに世界中の人びとの間に知れ渡っています。しばしば、そうしたチーム・トランプの動きは、アメリカ外部の人たちから見た時、アンチ・グローバリズムの動きとして受け止められているようですが、さらにそのかたわらでは、グローバリズムとはコインの裏表であったインターネットの動きや情報社会化という動きについても、かなり反動的な動きが出てきているように見受けられます。
簡単にいえば、「ワールド・イズ・フラット!」と名うったトーマス・フリードマン的世界観が破壊される方向にあるわけです。実際、トランプ当選後、当のフリードマンも、今後どのような「語り」を世界に提供すべきか、かなり困惑しているようにも思えます。
いずれにしても、トランプ後の情報化・インターネット化の情勢については、今後、改めて考えていく必要があると思っています。とりわけ、今ではすっかりトランプのハイテク番となった観のあるピーター・ティールについては、シリコンバレーというゲーム盤をかき乱すジョーカーとして改めて注目する必要があるでしょう。
トランプ現象が何故生じかといえば、頭のいい人たちが早々にデモクラシーを諦めたかたわらで、はなからデモクラシーなどどうでもいい人たちが、トランプの言う「現状を打破する」という威勢のいい言葉によって調子よく動員されてしまったというのが、定番的説明になりつつあるからでもあります。その意味で、確かに2016年はアメリカを変える年になったわけです。アメリカの国際的地位を踏まえれば、その影響は同時に世界中に及びます。
トランプの勝利という事件をもって、アメリカもようやく冷戦後の時代に突入するという見立てもあるようですが、その議論に従うならば、四半世紀前にソ連が内破してしまったように、アメリカも冷戦時代から継続して担ってきた「自由世界のリーダー」という役割を自ら放棄することで内破したことになります。そして、その「冷戦後の自由」の代表的な象徴の一つがインターネットであったわけです。過去20年余りの間、インターネットが、情報化、ソフト化、コンテント化、プラットフォーム化といった動きを通じて、文化の諸現象、諸場面に多大な影響を与えたことを踏まえれば、今後、2016年の影響は、具体的には日常の文化、それこそ消費文化にも波及していくことになるのでしょう。
もっともトランプが登場したからといって、アメリカが全て「トランプのアメリカ」になったわけでもなく、むしろ、文化の諸場面で、トランプという異物が放った効果に対抗する動きが生じているのも確かです。そのあたりから、今後〈ポスト・トゥルース〉アメリカを具体的に歴史的記憶として記録していくための素材が生み出されていくことと思います。
ということで、『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』、よろしくお願いします。トランプ以後の世界を、自分の頭で考え、理解し、今後どうしていったらよいか、という(誰もが抱える)課題に対して「出発点=ゼロ点」となるような本になったのではないかと思っています。
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ところで余談ですが、当初、本書は2月24日に発売される予定でした。ところが、同じ日に村上春樹の新著『騎士団長殺し』が発売されるということで、取次のキャパシティが春樹新本の全国配本でいっぱいになり、他の本にまで手が回らないということで27日にまでもつれ込んだということのようです。
実際、春樹新刊は、家電量販店の店頭でまで販売されていると盛り上がりで、文字通り、出版することが「お札を刷る」ことのようなものだったわけです。これはこれで面白い経験だったなと思います。情報化以後のポピュラリティとは、このような「メガポピュラリティ」のことなのなのだと、妙に納得させられたし、もしかしたらトランプ現象も春樹現象もやってることは同じなのでは?などとも思ってしまいました。そのあたりも、機会を改めて考えてみると面白そうです。
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それから、もう一つ、post-truthを巷で定訳化してきた――といってもまだわずか2ヶ月ほどのことでしかありませんが――「ポスト真実」という表現を使わずに「ポスト・トゥルース」とカタカナ表記で通したのは、truthには「真実」だけではなく「真理」の意味もあるからです。つまり単なる個々の事実だけでなく、数多の事実(というか現実)を生み出す法則的なもの/ルール的なものとしての「真理」、あるいはそれを悟ることすら「真理」のカテゴリーに入ります。「権力者によって覆い隠された事実」としての「真実」だけでなく、「人がまだ気づかない法則性」としての「真理」のニュアンスもtruthにはあります。
つまりpost-truthというのは、「真実なんてどうでもいいんだよ」という意味だけだけでなく、「何かを説明する真理なんてどうでもいいんだよ」という意味も含むはずで、それゆえ「信じること」のみが意味を持つような、反理性的態度のことをも指しているように思えるからです。となると、オブジェクトレベルの「事実」だけでなく、その事実を生み出すルール群という意味でメタレベルの「真理」のニュアンスを捨て去ってよいわけがなく、それゆえ「ポスト・トゥルース」という表記を採用しました。
個人的には、post-truthが「ポスト真実」となってしまった背景には、人間心理の描写を含む「真理」を扱う文芸ジャーナリズムが英米圏のように地歩を築いていないからと思っています。新聞報道の中核であるニューヨーク・タイムズにしても、いわゆる事実報道だけでなく、文化欄における批評が充実していることはつとに知られており、その意味でニューヨーク・タイムズは文芸ジャーナリズムの実践者でもあります。そして、事実報道と文芸ジャーナリズムが同居していることは、もちろん「ナラティブ=語り」が、実社会を生み出すことにまで繋がっているはずです。ありていにいえば、物語や文学、更には映画やドラマでも含む文化作品が近未来の社会の水先案内人(あるいは反面教師)として機能するということです。
ともあれ、truthの意味が「真実」だけではないことには、post-truthという言葉ば登場して日がまだ浅い現在では、気をつけておくにこしたことはないと思います。