AmazonのCEOのジェフ・ベゾスは、昨年(2013年)8月にWashington Postの株式をグラハム家から買い取り、新たなオーナーとなった。その後は、少しずつPostの組織やデジタル対応に変化を与えてきたのだが、一年経った今年の9月に入り、新しいPublisher兼CEOとしてフレッド・ライアン(Frederick J. Ryan)を指名し、10月1日からライアン体制がスタートすると発表した。
Post names Frederick J. Ryan Jr. as new publisher
【Washington Post: September 2, 2014】
Publisher of The Washington Post Will Resign
【New York Times: September 2, 2014】
Washington Post Publisher Weymouth Stepping Down
【Wall Street Journal: September 2, 2014】
ライアンは、デジタルジャーナリズムでPostの競合であるPoliticoの創業メンバーの一人であり、それ以前には、レーガン大統領時代のホワイトハウススタッフを務めた。レーガン大統領が任期を終了した後も彼に付き従い、レーガン財団の理事でもあった。アメリカの大統領は、大統領職を終えた後、記念に自らの名前をつけた大統領図書館(Presidential Library)を建てるのが慣例だが、ライアンはレーガン大統領図書館の設立にも尽力した。つまりは、生粋のレーガンシンパということだ。ライアンは、ロサンゼルスにキャンパスのある南カリフォルニア大学(USC)の卒業生でありJD(法学博士)もUSCで取得し、弁護士事務所に勤めていた。ハリウッド出身でカリフォルニア州知事から大統領選に出馬したレーガンとは、カリフォルニア時代から交流があった。
ロナルド・レーガンがアルツハイマー病であることを公表した後、90年代半ばにレーガンの元を去ったライアンは、Politicoの親会社であるAllbrighton Communication Co.のCOOに就任した。Allbrighton家は、かつてはPostの社主であるグラハム家とワシントンDCエリアで新聞販売を競い合った存在だったが、ライアンが移った時点では、ローカルテレビ局の保有会社として存続していた。Allbrighton家が、2007年にPoliticoを始めたのも、デジタルの世界で再度、Postに挑戦するのが狙いだった。このようにPoliticoは経営面ではAllbrighton家が、実際の報道内容のエディトリアルについては、デジタルジャーナリズムに賭けたPost出身のジャーナリストやエディターたちが担当していた。
(Politicoの創業については、このエントリーを参照)。
このように、ライアンはPolitico出身といっても、エディトリアルに関わったわけではなく、もっぱら経営面に携わっていた。ただし、レーガン時代からの政界との繋がりは切れてはおらず、大統領選における討論会の取材・中継に、新興メディアであるにも拘わらず参加できたのは、彼が維持した政界サークルの繋がりのおかげだと言われている。つまり、ライアンは、ジャーナリストではなく政策サイドの人間であり、メディアを活用する側の人間だったといいってよいのだろう。
そして、このライアンの経歴が、今後のPostにどのような影響を与えるのか、が報道や政治に携わる人たちの間で関心を集めている。端的にいえば、レーガンシンパという彼の経歴から、Postの論調が、共和党寄りのものになりはしないか、という懸念だ。
というのも、ライアンは、CEOだけでなくPublisherのポジションも、前任で、グラハム家最後のPublisher/CEOを務めたKatharine Weymouthから引き継いでいるからだ。CEOが、企業組織体としてのPostの最終責任者であるとすれば、Publisherは、報道機関としてのPostの最終責任者といえる。
もちろん、全体統括者であるPublisherが日々の細かいエディトリアルの意思決定を行うわけではない。Publisherの役割の一つは、日々の現場のエディトリアルに責任をもつ二人の役職を指名することだ。つまり、全紙の編集内容について責任をもつExecutive Editor、と、論説面を担当するeditorial page editorの二名を指名し、日々の発行業務を担当させる。CEOが、COOやCFOといった事業やセクションごとのトップオフィサー(士官)に具体的業務の監督を任せるのと同じことだ。
この二つの役職については、ライアンが就任する10月1日以降も、さしあたっては、Weymouthが指名した現職の二人が引き続き任に当たる、ということだ。そうやって、グラハム時代に培われたPostのエディトリアル方針に変更は加えないというメッセージを、広く伝えたことになる。
とはいえ、全米を揺るがすような大事件の報道について、どのような方針でどの程度まで行うのか、という判断にはPublisherの判断が大きく影響する。Postを調査報道の鏡にしたペンタゴン・ペーパーやウォーターゲート事件の追求には、当時のPublisherであったKatharine Grahamの支えがあったからこそ実現できたことは、アメリカのジャーナリズムでは既に伝説である。そのような伝統があればこそ、たとえば、最近であれば、エドワード・スノーデンによるNSA機密情報遺漏事件の際にリーク先の一つに選ばれたように、リークしてもその情報がもみ消されない報道機関であると外部から認識されている。
となると、今後、ライアン体制の下で、もっと正確に言えば、ベゾス―ライアン体制の下で、同種の大事件に対して調査報道が続けられるのかどうかは、引き続き関係者の関心を集めることになると思う。そして、おさらく、ベゾス―ライアン体制以後の変化のメルクマールとなるのは、2016年の大統領選だろう。その際、端的にPostは民主党、共和党のどちらの大統領候補をエンドース(推薦)するのか。その判断であろう。
アメリカの報道機関は、大統領選(に限らず主要な選挙)においては、候補者の一人をエンドースするのが慣例だからだ。もちろん、NYTやPostなどのクオリティ・ペーパー(高級紙)がどの候補者を指示するのか、というのは、選挙戦の動向に相応の影響を及ぼすことになる。ちなみに、グラハム家の下ではPostはおおむね民主党寄りの姿勢を保ってきた。はたして、そのPostの基本姿勢に変化が生じるのだろうか。
誰が見てもレーガン色の強いライアンをPublisher/ CEOに就任するように説得したのがベゾス本人であったことを考えると、もしかしたら今後、ベゾスは共和党支持の立ち位置を取るのかもしれない。ベゾスは、彼の政治的ポジションを公の場で明言したことはないが、Amazonの本拠地であるワシントン州では、同性婚を支持すると表明し、どちらといえばリベラル=民主党寄りの姿勢を取っているようにみえる。しかし、その一方で、企業経営者らしく、基本的にはリバタリアン的志向を持っており、政府の規制を減らして企業活動を自由に行えることを望んでいるようでもある。となると、仮に共和党支持といっても、良識的な、いわゆるニューイングランド・リパブリカン的な立場を取るのかもしれない。すなわち、基本的には小さな政府を支持し、その分、民間企業の自由を広げることを支持しながら、文化的には平等を目指す方向だ。
いずれにしても、ベゾスやライアンの政治的傾向がわかるのにはしばらく時間がかかりそうだ。
(ベゾスのPost株取得については、このエントリーを参照)。
では、当のPostの経営方針はどうか、というと、ベゾスは基本的に、長期で企業の成長を見る人物であることから、ライアンにも短期的な成果を求めてはいない。そのためか、ライアンの基本的方針としては、デジタルへの移行を進めながら全米(ナショナル)や国際(インターナショナル)の記事を増やしつつ、その一方で、他社との差別化を図るために、DCエリアのローカル情報の提供にも力を入れる。ちょうどNYTが、Art欄で在NYのMoMAやMETなどの博物館や、ブロードウェイのミュージカル、あるいは、書評欄を充実させて、地元文化の紹介をしながら、個性を際立てていることに近い。Postの顔作りに、DCのローカリティを強調する方向に向かうということなのだと思う。
そして、当面のターゲットとして力を入れるのは、Politico時代と同様、「早朝読者」層にある。つまり、DCで実際に政策を創ることで、アメリカ社会の現実を実際に変えていく政策関係者やシンクタンカー、各種活動家、そしてビジネスマンに向けて、彼らが一日の計画を練る上で欠かせない情報源になる、というのが当面の目標だという。つまり、日々の「情報戦」において、役立つ情報を提供し、時に、その情報戦を繰り広げる場として利用されることも加味している。これは、ジャーナリストの視点というよりも、報道内容を使いながら、日々の議会運営やビジネスの折衝をした経験者だからこそリアリティを実感できる役割だろう。
ともあれ、より現実的な経営方針が明らかにされるのは、ライアンが就任する10月1日以降のことだ。となると、目前に迫った11月の中間選挙でどのような報道がなされるのかが一つの鍵になるのかもしれない。そして、ベゾスがライアンを通じて具体的にどんなメッセージをPostの現場に伝えるのか。こちらも興味深いものとなりそうだ。ベゾスがDCとどのような関係を取り結ぼうとしているのか、を示唆するメッセージになると思えるからだ。それはまた、同じ西海岸といっても、シリコンバレーやサンフランシスコを含むベイエリアと、シアトルとの間の、微妙な社会的な差異を示す徴候の一つとなるように思えるからでもある。