以下は某週刊誌の教養特集向けに書いたものだが、諸般の事情から掲載がなくなったため、ここにあげておく。
基本的には、表題の通り、「メディアの未来を考える」ものとして10冊を選んだのだが、容易に想像がつくように、実は「メディア」という言葉は非常に定義の曖昧な言葉だ。マスメディアの場合は、自動的にジャーナリズムや政治的な価値に繋がる。コンテントやエンタテインメントのような具体的な作品を示すこともあるし、原義通り、何かと何かを「媒介」するものという意味もある。もっとざっくばらんにいえば、具体的な作品ジャンルとして、映画、テレビ、音楽、写真、絵画、・・・、などを指す場合もある。要するに、実は融通無碍でどうとでも取れる対象だ。ここでは、その曖昧さにあえて付き合う形で10冊を選んでいる。
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【リード】
メディアの変容は常にテクノロジーが先導してきた。そのため、メディアの未来を見通すには、ITをウェブというメディアへと変貌させたアメリカ社会が、いかにしてテクノロジーと付き合ってきたかを知ることは有益だ。その過程で、西洋の教養が現在進行形で活用され、現代社会の変容に大きく貢献していることがわかる。教養は日々更新され、新たな古典を生み出している。
【選書10冊】
1 『CODE VERSION 2.0』
ローレンス・レッシグ 翔泳社 2007
プログラム文化と法文化を架橋することで「アーキテクチャ」という概念を提案し、ウェブ社会のあり方を巡る議論の枠組みを与えた現代の古典。
2 『敵対する思想の自由 アメリカ最高裁判事と修正第一条の物語』
アンソニー・ルイス 慶應義塾大学出版会 2012
ウェブのメディア化を水路付ける「表現の自由」という法的概念が時代時代の社会情勢に応じてどのように鍛え上げられてきたかを検証した一冊。
3 『マスタースイッチ 「正しい独裁者」を模索するアメリカ』
ティム・ウー 飛鳥新社 2012
「ネット中立性」の発案者による米メディア産業興亡史。反トラスト法などの経済法がいかにテクノロジーを飼い慣らしてきたかを鋭利に論じる。
4 『ヒップ アメリカにおけるかっこよさの系譜学』
ジョン・リーランド スペースシャワーネットワーク 2010
20世紀の大衆社会を演出したアメリカ文化の精神史。新たなメディアテクノロジーが誕生する度に「ヒップ」な欲望は新たな文化を創造してきた。
5 『第一ポップ時代』
ハル・フォスター 河出書房新社 2014
「誰もが15分だけ有名になれる」というウォーホールの言葉は、ウェブ時代の誰もが参加できる「ポップ」なメディア文化を見事に予見していた。
6 『インフォメーション 情報技術の人類史』
ジェイムズ・グリック 新潮社 2013
物質とエネルギーに続く第三の基礎概念である「情報」の発祥と拡張にまつわる人類史。量子計算機やゲノム解析など情報が拓く未来は限りない。
7 『テクニウム テクノロジーはどこへ向かうのか?』
ケヴィン・ケリー みすず書房 2014
テクニウムとは「自律システムとしてのテクノロジーの総体」を指す。Wired創刊に携わりシリコンバレーのギーク文化を育んだ著者が思索した未来。
8 『アート建築複合態』
ハル・フォスター 鹿島出版会 2014
ウェブ登場以後、複数の文化を越境する創作行為は世界中で生じているが、グローバルスタイルを先導するアイコンとして建築に勝るものはない。
9 『ホーキングInc.』
エレーヌ・ミアレ 柏書房 2014
現存する人類の最高知性の一人であるスティーブン・ホーキングを通じて、人間の身体とネットワークが複合した新たな知性の可能性を探求する。
10 『アッチェレランド』
チャールズ・ストロス 早川書房 2009
ITの社会経済的影響を極限まで見据えて綴られた、22世紀までの未来百年史。SF的想像力は未来を拓く創造力の良質な糧であることを再認させる。
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以上が原稿として書いたものだが、大雑把に流れを捉えると、
議論枠組(1) → 法的基盤(2, 3) → 文化(4, 5) → 技術展望(6, 7) → 複合動態(8, 9) → 未来(10)
という感じだろうか。
もともと雑誌掲載用なので、厳しい字数の中で各書の特徴を鮮明にするようにしたのだが、流れ的には比較的コンパクトにできたのではないかと考えている。というのも、限られた文字数では周辺状況から説明するわけにはいかず、いきなりポイントだけを示さなければならない、加えて、10冊を眺めた時に浮き上がる「流れ」を何らかの形で作らないといけないと思っていた。
そして、リードの中で書いたとおり、それぞれの本の記述の中で、西洋的教養は、分析の視点、議論の方向性の選択、時間を超えたレトリック(それ故の普遍性の確保)などのために利用され、新しい議論のフレームワークを作り出し、それがまた次の議論を喚起する・・・という形で使われている。これは、留学時の経験や彼らの書き物を読んできたことからの実感から得られた確信でもある。
つまり、アメリカの場合、教養的知識は、いわゆる「教養」として神棚にあげられるような静的な「知識」ではなく、日常の議論で適宜呼び出されて活用される動的な「知恵」として捉えられている。そして、動的があるがゆえに、次の知識の生産に繋がっており、それゆえ「生きている」。
もちろん、本家のヨーロッパにおいても、教養は現在に生きているように思えるが、それを確信できるような経験をしていないため、そこまでの言及は控えておく。
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今回寄稿予定だった特集に限らず、2010年代に入って、ともすれば「教養」が大事、という話がメディアでは取り上げられることが当たり前になっているようだ。しかし、当の「教養」についての定義や規定が曖昧なまま扱われている場合がほとんどである印象がある。今回の原稿依頼でも、編集部側から教養とはXXのことです、というガイドラインは示されることはなかった。要するに、執筆者が抱く各人各様の「教養」観に委ねられている。それゆえ、仮に選者10名による100冊が示されても、そこに何らかの統一感が浮きあがってくるとは想像しにくい。
もっとも、日本においてはネット以後、何にせよ「キュレーション」という言葉で代表されるように、普遍的な基準に頼らずにもっぱら個人的主観(≒好き嫌い)に則った、知識の切り貼りが日常になってしまったことは確かだろう(さらに、いまだに日本のネットのメディア化は、そうしたキュレーション的アグリゲータが中心であり続けているように思える)。そのため、そうしたごった煮の100冊を見せられたてとしても、読者の方はといえば、実はそれなりに読めてしまえるのが実情なのだろう。
しかし、こういった「切り貼り」的な実態が安定化し一種の均衡点になってしまっているからこそ、手元で得られた知識が、情報を与えるシステム(要するに「メディア」)の側の事情のせいで、単なる表層的な情報でしかないように思えてしまい、その結果、より有用性の高い、あるいは、汎用性の高い、普遍性のある「教養的な知識」を求めてしまう社会的動勢を生み出し(続け)ているのではないか。
要するに、手持ちの知識に自信がない、あるいは自信を与えてくれるような裏書きがない、と感じるからこそ、そんな表層的なものではなく、より根本的なもの、深層にある「ホントのこと」を求めてしまうのではないか。
そういう意味では、昨今見かける、一種の歴史主義への回帰のような状況も、現在に安心感を与えてくれる錨がないからこそ、歴史に戻り、その中で朽ち果てることなく継続されるものに正統性を見出すことで安堵し、同時に真理性まで読み込んでいるようにも見えてくる。そうした歴史主義を属人的なレベルに引き寄せれば、血統や血脈に関心を寄せるような方向にも旋回する。社会の表層をなめただけの知識でしかないのではないかという疑念が、必要以上に深層を求めてしまう。共時的に手応えを保証してくれるものが手近なところに見当たらないので、通時的に均衡点を保証してくれるものを求めてしまうということなのだろうか。ついでにいえば、そこからロマン主義に転じるのもそう難しくはないことなのかもしれない。
もっとも、単純に、情報が溢れすぎていて個人の判断で選択することが難しいと感じるようになったため、つまりは「段階を踏んだ知識の標準」がわからなくなったため、「教養」という言葉で、世の中にある知識群の中の「平均=標準」を求めているだけなのかもしれないけれど。
「教養」を求める社会はそれだけで十分考察に値する。
こんなことを原稿執筆中に考えていた。