2014年3月12日は、WWW=World Wide Webが誕生してから四半世紀が経った記念日となる。
25 years of the World Wide Web: Tim Berners-Lee explains how it all began
【The Independent: March 12, 2014】
An online Magna Carta: Berners-Lee calls for bill of rights for web
【The Guardian: March 12, 2014】
As the Web Turns 25, Its Creator Talks About Its Future
【New York Times: March 11, 2014】
この場合の誕生とは、25年前、CERNの素粒子物理学者であったバーナーズ・リーが、上司に「Information Management」の提案者を提出したことにある。それによってハイパーリンクを旨とするWWWが誕生した。そして、そのWWWを一般の人びとでも利用し閲覧できるようにしたのが、いわゆる「ブラウザ」だった。
これは余談になるが、バーナーズ・リーが件の提案書をまとめる際に使っていたコンピュータがNeXTであったことは興味深い。NeXTは、Appleから追い出されたスティーブ・ジョブズが起業し開発した新形ワークステーションだった。89年という時代性を感じさせるエピソードだ。
ともあれ、オープンな情報交換をインターネット上で実現するWWW、すなわち「ウェブ」はバーナーズ・リーの提案から始まった。要するに、素粒子物理学ないし宇宙物理学のような国際的な協力体制が必要な「科学者共同体」の間の知の流通方法として「ウェブ」は考案されたわけだ。そして、現在、その恩恵に預かっているのが世界中のウェブユーザーということになる。
だから、正確に言うと、「インターネット」という分散型のコンピュータネットワーク網からなる物理的(+ソフト的)インフラの上で作られた「基本的にオープンな情報交換プラットフォーム」が「ウェブ」である、ということだ。インターネットとウェブはほぼ交換可能な等価な言葉として使われることが多いが、厳密には、このような違いがある。
数年前に、当時Wiredの編集長を務めていたクリス・アンダーソンが「ウェブの死」と言っていた時の「ウェブ」も、この「オープンが原則」のWWWのことを指していた。簡単にいえば、オープンなWWWの上で、HTMLで書かれた情報がアップされていたからこそ、Googleは検索事業で世界を掌握することができた。その意味で確かにバーナーズ・リーは今日のウェブの始祖だったといえる。
しかし、当のバーナーズ・リー自身は、25歳を迎えたウェブを前にして、アンダーソン同様、随分前から懸念を表明していた。それは、技術的にも制度的にもウェブのオープン性を減じさせる動き、すなわちインターネットの「バルカン化」と言われる現象が生じつつあるからだ。ここでいう「バルカン化」とは、第一次世界大戦の発端となって以来、20世紀を通じて政情が不安定な状態を続けたヨーロッパのバルカン半島に由来する。技術的には、スマートフォンの登場によってクローズドなアプリが一般化してきていること、制度的には、ウェブ上でアクセス制限や検閲などを行う政府が出てきていること。これらの動きによって、「オープン」をデフォルトとして設計したウェブの特性が損なわれてしまう。これが創始者であるバーナーズ・リーの懸念だ。
だからこそ、改めてウェブにおける「オープン」の意義を問い直さなないといけない、というのが、最近のバーナーズ・リーの動きのようだ。この点で、彼がイギリス出身であるからなのかもしれないが、今回の25周年を祝う報道において、彼が提出したWWWの提案書が、「マグナ・カルタ」や「ビル・オブ・ライツ(権利章典)」として紹介されているところが興味深い。マグナ・カルタにしても、権利章典にしても、イギリス政治史の中でデモクラシーを一歩ずつ進めた動きとして常に振り返られるものであり、もっといえば、そうして築き上げられたイギリスのデモクラシーが、建国時のアメリカのみならず、世界各国でのデモクラシーを語る上での立脚点となっているものだ。したがって、バーナーズ・リーの25年前の動きをそのように形容する背後には「オープン性」を一つの政治的価値、あるいは、人びとの権利、として位置づけてはどうか、という報道者の価値判断が記されていることになる。
そう考えると、欧州を中心に、インターネットのオープン性に対して、思弁的にも、実践的にも目立った動きがあることも納得できる。「思弁的」というのは、EUの単位で、インターネットを中心に、いわゆるコミュニケーションの権利を制定し、保護していこうとする動きがそれだし、「実践的」いうのは、北欧を発端に現在ドイツにも及んでいる、いわゆる「海賊党」の動きがそれにあたる。どちらも法に係る部分で政治的なコンテキストも帯びた動きとして位置づけられる。その原点にあるのが、バーナーズ・リーの提案書だった、というわけだ。
ところで、インターネットのオープン性、ないし、ウェブのオープン性、というのは、バーナーズ・リーの動きだけから発したわけではない。インターネットを実際に開発=発明したアメリカであれば、たとえば、「フリー・ソフトウェア」という動きもあった。フリーであるためにはオープンでなければならないため、実質的にオープンを支持する価値観に繋がった。
それにしても、ヨーロッパが「オープン」なのに対して、アメリカが「フリー」というのも、なかなか興味深い対比ではある。オープンはいわば設計者から見た視点、フリーは利用者から見た視点に立脚しているようだ。「情報を世界中でオープンに利用したい」と考えたのが、その情報システムの利用者である「科学者(サイエンティスト)」であったのに対して、「部品としてのソフトウェアを自由=フリーに使いたい」と考えたのが当のシステムの設計・管理者であった「技術者(エンジニア)」であることも、微妙にヨーロッパとアメリカの違いを反映しているようで面白い。
つまり、オープンとフリーは手をとりあって、今までのインターネット≒ウェブを支えてきたことになる。
そして、だからなのかもしれないが、この「ウェブ25歳」という報道が、どちらかというと、アメリカよりもヨーロッパで目立つのも分かるような気がする。それは、インターネットを実際に発明したこと、そしてそのシステム管理の要諦として「フリー」を掲げてきたこと、そのあたりが、むしろ、アメリカ人にとってはインターネット≒ウェブの「誕生」にとって要となる事態なのかもしれない。
そう考えると、たとえば、IBMやマイクロソフトといった、もともとはクローズドシステムのコンピュータから始まった企業が、クラウド・コンピューティングという、コンピュータ・アーキテクチャの変化の流れにあわせて、オープンな方向に舵を切っているのも分かる。むしろ、システム・アーキテクチャ上の合理性にしたがって「オープン」という特性が選択されたわけだ。そこでは、オープンは出発点にある価値ではなく、合理的判断から得られた結果としての価値である。
ともあれ、このような対比ができてしまうところが、ウェブが既に世界中の社会を支える基盤になってしまったということなのだろう。したがって、当事者の数だけ、記念日が登場すると思ってよいのだろう。そして、その都度、そうした記念日で言祝がれる価値観(今回であればバーナーズ・リーの科学者共同体的オープンネス)を通じて、それだけで語れない部分がウェブにはあるというのを確認することで、むしろ、ウェブの世界的広がりを実感できるのかもしれない。
もはや「オープン」という言葉は、たとえば、「オープン・デザイン」のように設計/創作の指針として使われたり、「オープン・ガヴァメント」のように統治体のあり方として政治的理念として使われていたりする。オープンにも様々な文脈があることを理解することで、この言葉はより広い意味を持つ「価値観ワード」として鍛えあげられるのだろう。ちょうど、自由という言葉が多様を意味を持ちつつ、現代社会において常にそこに戻ってくる言葉としてあるように。
ということで、おめでとう、ウェブ。25歳の誕生日。