テキサス州の都市であるサンアントニオで全米初の、書籍のない図書館が誕生する。つまりは、電子書籍からなる図書館ということだ。
Bexar set to turn the page on idea of books in libraries
【mysanantonio: January 11, 2013】
In the Future, Will Libraries Look More Like Apple Stores?
【Fast Company Co.EXIST】
America's first bookless public library will look 'like an Apple Store'
【THE VERGE: January 13, 2013】
電子書籍である以上、何らかのeリーダーは必要で、そのインターフェースから、アップルストアやキンドルストアに近い印象をもつのは当然のことだろう。ただ、それなら、既にアマゾン自体がキンドルストアでレンタルを始めているのだから、目新しいことではない。
だから、大事なことは、これが一般向けのオンライン図書館として始まるということ。それから、その場所がテキサス州のサンアントニオだということ。そのことの含意の方を受け止めないといけない。
最初に後者のサンアントニオの方に目を向けると、ここは、今、ヒスパニックの若手市長であるフリアン・カストロ氏で全米の注目を集めている都市であることだ。カストロ市長は、2012年の大統領候補を指名する民主党大会でキーノート・スピーチを務め、民主党の次代を担う若手政治家の一人として数えられている。
そのカストロ市長はサンアントニオを、知的資本に基づいて経済成長を行える街にしようと尽力している。実は、サンアントニオは、テキサス州で見ても、全米で見ても、高校の中退率が高く、教育の点で決して成功してきた街とはいえない。そのことは自分自身がサンアントニオのパブリックスクールで学んだカストロ氏自身が経験していることだ。
そして、カストロ市長が教育に力を入れようとしているのは、学部をスタンフォードで過ごし、ハーバード・ロースクールに学んだ経験から来ている。スタンフォードで、ベイエリアの知識志向で技術志向の経済の回し方を直に体験しているからだ。そして、そのような知的レベルをあげるには一定の教育機会が必要だと痛感している。というのも、彼自身が公にしているように、フリアン・カストロ氏がスタンフォードに入学できたのは、彼がヒスパニックであり、アファーマティブアクションのおかげだったからだ。つまり、彼(と双子の兄)は、自分たちが公の力によって教育機会を与えられることで現在の地位(兄のホワキンは同じくスタンフォードを経てハーハードロースクールを修了し、テキサス州議員を経て、現在は連邦議会下院議員を務めている)に付けたことを痛感しているからだ。
だから、件の公共の電子図書館の開設も、広い意味で教育機会の一般への開放や、必要な知識や知恵へのアクセシビリティの拡充を目的としていると捉えなければいけないだろう。ただ単に、技術的に可能だから、という理由だけではないわけだ。
そして、そのようなサンアントニオの事情を知ると、第一の「図書館」の意味も変わってくる。むしろ、英語のままでライブラリーと考えて、単なる収蔵庫のイメージを変えていかないといけない。
建築の分野では、たとえば、伊藤豊雄の仙台メディアパークや、レム・コールハースのシアトル中央図書館のように、パブリックスペースとしての図書館の意義を情報化時代に合わせたものに変えようとする試みが既に幾つもなされてきた。とはいえ、そこでは、当たり前のことながら、書籍の収蔵と請求、という、本の物理的存在に大きく制約を受けている。また、収蔵庫という性格から建築物としては一定の規模を持つものにならざるを得なく、それは必要な資金=予算の増大をもたらしてしまう。だが、開設されるものが公共施設である以上、今度は予算の承認が必要であり、その予算の正当化のために今度は設計の段階からの合意形成のプロセスが必要になる。つまり、どうしても、フレキシブルな対応が困難になる。
しかし、フルデジタルの電子図書館であれば、そのような図書館=ライブラリーを取り巻く、いわば社会的慣性の重さから解き放たれ、より軽く、より柔軟な対応も可能になる。たとえば、カストロ市長が考えるような、サンアントニオの住民(それも若い住民)に知的資本に接する機会を増大させることができる。
そして、今度は逆に、そのような公的利用が根付けば、次に起こるのは、商業ベースでは電子化が困難、もしくは電子化に当の出版社がインセンティブを感じないような書籍についても電子化を促す意義が生まれることになる。場合によると何らかの金銭的補助なり補填も生じるかもしれない。
そして、この話は、先日書いたAaron Swartzの、JSTORの論文データの開放、という話にも繋がっていく。フルデジタルの電子図書館の利用を通じて、より現実的で、おそらくはより穏健的な方法で、図書館という建築=ハードではなく、ライブラリーの機能=ソフトの更新の方に着手することを可能にする。もちろん、電子書籍だけでなく、物理的な書籍の位置づけにも影響を与えることだろう。
サンアントニオのフルデジタルライブラリーの試みは、このように、ライブラリーを支えてきた前提条件や目的のところにまで手が届くものだと思う方がよいだろう。
そして、その時、思い出すべきは、そうしたプログラムをもたらしているのが、アファーマティブアクションを通じてスタンフォードで学び、ベイエリアの空気を肌で感じたフリアン・カストロ市長であるということだ。いわばベイエリアの発想が、あるいは、ハーバードのあるボストンの啓蒙的発想が、テキサスの地に飛び火しているわけだ。
図書館の試み自体は小さなものだが、その小さな一歩がどのような広がりをもたらすのか、楽しみにしたい。本を取り巻く生態系が変わる一歩となることは多分間違いないことだろう。