FacebookやGoogleがどうしてスマートフォンやタブレットに出遅れたのか-そして、引き続き引き離されそうか-というのを取材経験から推察したNYTの記事。
Disruptions: With New Comforts, Growing Complacent
【New York Times: April 22, 2012】
ほとんどその答えは、このエントリーのタイトルで表されているのだけど、要するに、FacebookにしてもGoogleにしても、開発要員たるエンジニアにとって快適な環境を提供し過ぎている、というのが、筆者の指摘のポイント。
通勤時のバスはWi-Fiが設定されていて、そこからラップトップを開くことができる。オフィスに入ればずっとラップトップないしフラットスクリーンのデスクトップに囲まれた開発環境。複数のモニタが並ぶのは当たり前。ランチになっても有名なフリーカフェテリアがあるから外に出る必要もない。オフィス、というよりはキャンパスというほうがいいだろうけど、そこは福利厚生施設も整っていて、ジムもあれば、デイケアセンターもある。その他、マッサージルーム、ドライクリーニング、レンタカーも可能。生活のほとんどすべてが、キャンパス内で完結可能となっている。まさに、キャンパス。そしてそのドーミトリーのようなもの。そうやって、まさに大学の研究室のように、四六時中、社員が開発に従事できるようにしている。
裏返すと、モバイルで必要となる、何か行動を促すような情報の利用を、ラップトップではなくスマフォらを使って利用する機会がほとんどない。そのような環境下ではモバイルに適したアプリケーションなど開発できなくても仕方がない。
つまり、FacebookにしてもGoogleにしても、あまりにPCセントリック、ないし、ウェブセントリックにすぎる環境だということ。
対して、モバイルのアプリを開発したスタータップの多くは、未だに会社のウェブサイトすらない。つまり、彼らにとっては、モバイルこそが彼らのフィールドであって、決して、モバイルはPCやウェブの環境の延長線上にあるものではないと捉えている。
要するに、時間はあるが金はない、だからぶらぶらするには事欠かない学生ないし学生あがりの人々がモバイルに関わったほうが、モバイルユーザーが欲しいと思うもの、あるいは、実際に継続して使えるようなものが作れるはずだ、ということでもある。
以上の見方は、この記事の筆者の経験から出た推測で、見解をサポートするような数量的根拠はない。だから、とりあえずこの話を信じるかどうかは読者の側に委ねられるわけだが、それにしても、これはもっともらしい説明でさしあたってはそうだろうなと信じてもいいように思えてくる。
とはいえ、この話は何もFacebookやGoogleのようなウェブ企業に限った話ではなくて、比較的規模の大きい会社ならどこにでも当てはまりそうなところが少し怖いところだ。
それにしても、シリコンバレーの企業の新陳代謝はとてつもなく早い。そんなことも感じさせる記事だ。