ニューヨークのホイットニー美術館でもうすぐ始まるビエンナーレに関する、フェイクサイトのことに触れたNYTのブログ記事。
Whitney Biennial Punk’d
【New York Times: February 27, 2012】
「whitney2012.org」というサイトは、フェイク、つまり「まがいもの」、もっとくだけていえば「なんちゃって」なサイトであって、ホイットニー美術館のオフィシャルサイトである「whitney.org」とは関係がない。そのことをまず伝えている。
で、そのフェイクサイトで何が書かれているかというと、ビエンナーレのスポンサーのうちのニ社が社会的に許しがたい企業行動を行なっているので、ホイットニー美術館としては彼らの寄付金を返金することにした、アーティストには迷惑がかかるかもしれないが了解して欲しい。そのようなことが記されている。
何も知らない人が読めば、ああ、ホイットニーの理事会(Board of trustees)というのは随分高潔な人たちなのだな、ビエンナーレ直前に既に受け取ってしまった寄付金を返すとは。きっと開催準備に寄付金の多くは既に使ってしまったのだろうから、その分のお金をどうにかして調達してきたということなのだろうな、きっと理事会にはそのような資産家や、あるいはファンドレイジングを出来るだけの人物がいるのだろうなぁ・・・などと思ってしまうことだろう。
それくらい、このフェイクサイトの内容はカッコイイ。そんな印象を与える。
ただ、このサイトがフェイクということになると、そういった印象は当然反転する。
で、ここで大事なのはこれが「フェイク」と言われるにとどまっているところだ。少なくとも上のNYTのブログではそのような書き方にとどまっている。実は、最初にフェイクの訳として「偽」という言葉を使おうと思ったのだけで、それでは一方的に「真偽」を確定させることになって、元々のフェイクサイトの位置づけや、そのサイトを「フェイク」と呼ぶこの記事を書いた人の意図を裏切るように思えてきたためだ。
このように、このサイトの扱いは考えれば考えるほどいろいろと微妙な感じがしてくる。いろいろなものを「宙吊り」にするコミュニケーションそのものに思えるからだ。そして「宙吊り」のコミュニケーションは、一般にアート全般に担わされている、あるいはアーティストが担っていると自負している社会的役割のように思えるからだ。そして、そう見てくると、そもそもこのサイト自体が一種のアート作品として解釈可能のようにすら思えてくる。
普通に考えれば、ホイットニーの名を語る時点で、あるいはホイットニーのロゴと見まごう(というよりもほぼ同一の印象を与える)ロゴを使った時点で登録商標の流用等の理由で法的処置が取られそうだ。あるいは、サイト内で言及されているニ社から名誉毀損で訴えられそうだ。そのような結末を想像してしまう。賠償や裁判という方向に至る前に、少なくとも差止め要求のような手段を通じて、裁判所命令としてサイトをクローズさせる手続きが取られるのではないか、とか。
ただ、もしもそのような方向に向かうのならば、そのような行動を起こした側は、二つの問題を抱えそうだ。一つには、そのような行動を起こすことでサイトに書かれたことについて何らかの態度表明をしてしまうこと。事実として認めるか、虚偽として認めるか、はともかくとして、とにかく当事者として何らかの説明が要求されてしまうことだろう。二つ目は、そのようにして「宙吊り」のコミュニケーションを真偽のどちらかに回収することで、アートをわかっていないというように見られてしまうかもしれないということ。一般の企業や団体ならいいのかもしれないが、ホイットニー自体が当のアート作品の目利き役である美術館である点で、この宙吊りのコミュニケーションの扱いはデリケートなことのように思えてくる。
さらにいえば、このように考えてくると、そもそもフェイクサイトに書かれている内容が、このフェイクサイトの制作者自身もはなから信じていなくて、文字通りのフェイク、想像上のしろものとして作っているのではないか、とも思えてくる。要するに、書かれている内容の真偽など最初から関係ない。あえていえば、ホイットニーさん、よもやこんなことはしてないですよね?という、架空の話の上でのこととも思えてくる。つまり、一種のパロディとして位置づける。位置づけ的には、Saturday Night Liveのようなコメディアンによるパロディと大して変わらないように思えてくる。
この点については、このサイトの巧妙なところでもあるのだけど、ビエンナーレのチケット購入やメンバー登録サイトにもリンクが張られているところで、このサイトをフェイクであると気が付かないままの人は、もしかしたら実際にビエンナーレのチケットを買ってしまうかもしれない。誤解が誤解のまま回ってしまうコミュニケーション回路自体の提示と解釈してもいい。そうして、このサイトそのものが一つのコミュニケーションゲームをしているようにも見えてくる。
かようにこのサイトは、宙吊りのコミュニケーションのあり方をさらっと目の前に出してくれている。
教訓として、ウェブの情報は真偽がままならないね、という風にとってもいい。パロディとしてとるなら、仮に司法の場に持ち込まれても、これは「表現の自由で守られた・・・云々」という人たちも出てくるだろう。上で書いたように、アートの範疇で扱うなら、そんなことはそもそも大事ではない、ということになる。
そして、多分一番大事な点は、多くの人たち、当事者以外の人たちにとっては、ここにある内容の真偽にはほとんど拘泥しないということだろう。当事者でないということは、大なり小なり、その内容を想像的に理解するということだからだ。そして、だからこそ、真偽判定ではなく解釈ゲームに興じることができる。
当のビエンナーレは3月から始まる。当面は、ホイットニー美術館自体が、このサイトをどう扱うのかが気になる。放置したままなら、このフェイクサイトを一種のバズ発生装置として理解したということになるのかもしれない。サイト閉鎖の要求を出したら、サイトそのものは目にすることはできなくなる。それでも、このフェイクサイトがあった、という事実だけは語られてしまうのだろう。それが大きな波及効果をもつのかどうかはわからない。しかし、最低限、宙吊りのコミュニケーションがあった、そんな出来事があったということになるのかもしれない。となると、次に来るのは、そのようなお騒がせに終わった出来事もアートとみなすのかどうか、ということかもしれない。
ともあれ、ウェブのコミュニケーションについていろいろと考えさせてくるイベントである(あった)ことは間違いないと思う。実際、ここまでこうやって書かせてしまう力を秘めていたわけだから。