案の定、マジソン街(アメリカの広告業界)で、AOLのHuffPo買収について、広告を出す側の視点から議論が生まれているようだ。
Advertisers Weigh AOL, Politics
【Wall Street Journal: February 10, 2011】
HuffPoはリベラル支持、つまりデモクラットの支持に偏ったサイトであることはアメリカ人なら誰もが認めるものだ。そのリベラルへの傾斜が、HuffPoの影響のもとで再編されるAOLのサイトでの広告出稿に影響を与えるかどうかが、件のマジソン街で議論され始めたことだ。
影響があるという人たちは、当然、GOP支持の人達やユーザーがAOLから逃げ出す可能性を考えており、それによりHuffPoの上で展開されるべき広告内容やスポンサーにも配慮しなければならないとする。
一方、影響がないと考える人達は、なんであれ、大事なことは人々が集まってかつそこで見たウェブ広告をクリックするかどうか、だけが問題だと考える。
どちらが正しいかは、今後の様子をみなければわからないが、しかし、傾向としては、クリックの成果が意味を持つ方向に行きそうなのは、現在、広告を取り巻く「研究開発」の動向からすれば自然なものに思われる。
たとえば、先日、上場したNielsen Holdngsが、ニューロマーケティングといって、脳科学の成果の工学利用に多大な関心を示していることからもわかる。
Nielsen, Demand Media Jump on Debut
【Wall Street Journal: January 26, 2011】
先月(1月)末に上場したNielsen Holdingsは上場で得た資金をNeuroFocusというニューロマーケティングを行う会社の投資に回している。
Nielsen Holdingsは、テレビの視聴率や雑誌の閲読率など、メディアへの接触実態を調査する会社の持ち株会社だ。ウェブが登場する以前は、テレビ視聴率の測定をほぼ独占することで磐石なビジネスを展開していたが、ウェブの登場で消費者の接触率の測定や、その利用の仕方が多様化することで、それへの対応を迫られた。
いうまでもなく、Googleのようなウェブ企業は、技術志向でイノベーション志向の企業だ。そこで開発される様々な「新たな測定手法やデータの活用法」に対してNielsenとしても対応せざるを得なくなった。そして、そのための技術開発には資金が必要になり、その資金需要を満たすために上場「せざるを得なかった」。
そして、上場した以上は、収益の拡大も目指さねばならず、そのために投資家にわかりやすい視点として、「技術開発の可能性」という経営戦略の軸を導入し、それにより将来の成長性を確保する必要がでてきた。そのための、一つの投資先がニューロマーケティングという「脳科学」の成果に基づく、未来の可能性だ。
ここには、鶏と卵的な状況がある。つまり、上場した以上は資金を研究開発に費やし成長オプションを(投資家に)示さなければならない。その一方で、Googleのような研究開発型企業と伍していくためには、自ら技術開発に手を染めなければならず、そのためには資金が必要となるから、IPOが次善の策となる・・・という具合だ。
その結果、広告行為は、常に測定対象とされ、その測定軸や効果と連関させるために、脳科学、あるいに、認知工学の成果が援用されるようになる。いや、援用しなければならなくなるといったほうがいいかもしれない。
こうして、意味よりもクリックの方が、広告の「意味」を形成する、と思われる広告理解の認識図式が強化されていく。
そのフレームのもとで、HuffPoのようなサイトの、「広告掲載メディア」としての可能性が測定されていく。
容易に想像できる仮説としては、リベラルか保守か、デモクラット支持かGOP支持かという政治的傾向性とは関係なく、食品・飲料などの日常品についての嗜好はあるだろう、とか、車やジュエリーなどの奢侈品的要素をもつものについては、その人の収入や居住区(勿論、収入と居住区にも相関はあるはずだが)の方が影響因子として強いとか、そのようなものだ。
そして、こうした仮説が、上手く行けば、ニューロマーケティング的なものによってある程度は保証され、そこから一つの支配的言説が形成されていくかもしれない。もちろん、その逆もあり得る。全く役に立たないかもしれない。
とはいえ、データ志向だけは強化される方向にあることは間違いないだろう。
そして、そうすることで、政治的傾向と消費的嗜好の相関の有無も確認されるかもしれない。
いずれにしても、HuffPoのような「特徴のある」ジャーナリズムサイトと広告の相性が明らかになるに連れ、従来、ジャーナリズムの文脈でしばしば示されてきた商業主義への忌避という態度も見直されるのかもしれない。そして、商業主義とは別の軸で、ジャーナリズムの存立基盤についても具体的に考えることが出来るのかもしれない。
その意味でデータ志向が活用されるならば、確かに、新しい可能性を開くように思える。
意味よりもクリック、ということを肯定的に捉える立場も生まれてくるかもしれない。