Facebookの5億人はMembershipかCitizenshipか

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July 23, 2010 16:24 jst
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junichi ikeda

Facebookの登録ユーザー数が5億人を越えた。その様子を国民国家との比較から論じた記事。

The future is another country
【The Economist: July 22, 2010】

先日イギリスの首相となったDavid Cameronが、Facebook のCEOであるMark Zuckerbergに対して「実際には握手することができない多くの人々からの期待に応えるにはどうしたらよいのか」と尋ねた、という紹介は、国民国家とSNSを類比的に考えるためのいいイントロだと感じた。

記事中にもあるように、国民としての「一体感」はどうやって構築されるか、という点について、有名なベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を引きながら説明している。イントロの「握手することができない無数の人たち」との間で一体感を得るには、何らかの形で自分自身が「想像的に」その大きな存在≒国に連なる存在だという感じることが必要になるのだろう。そして、その理屈だけなら、Facebookも国民国家と同じレベルの存在と考えていいのではないか、ということになる。

もちろん、想像だけの紐帯関係では国際法上は国家としてはカウントされない。領土や政府などが必要になる。記事では、国よりも、むしろ、国際赤十字やローマ・カソリック教会のように、いざというときに政府や政府要人に準じる形で、何かの(国際的な)意思決定に関わる力をもつ存在として捉えることも配慮している。

面白いのは、上の記事で紹介されている、人口の多い国とSNSを比較した図だ。

中国、インド、の次にFacebookが位置し、その後に、アメリカ、MySpace、インドネシア、ブラジル、Twitterとなる。驚いたのは、Twitterのユーザー数が日本の人口に肉薄していること。いずれにしても、人口とユーザー数を比較しての順位付けだ。

なぜ面白いかと思ったかというと、10年ぐらい前に流行った見方は、国と企業を、GDPと企業売上で比較したものだったことを思い出したからだ。つまり、経済的な生産量という視点から見ると、たとえば、トヨタのような企業が中欧の国よりも大きい、という位置づけになっていたはずだ。

つまり、経済力、が国際的な舞台における存在感の指標と捉えられていた。

それに対して、今回のFacebookの場合は「人の数」だ。

多くの人を組織して抱えていることが、国際舞台における存在感の源泉の一つになる、という想像力が、Facebookが注目される理由の一つだ。ただ、「人の数」の多さが考慮されるのは、一人一人に一票がある、という考え方からだと思う。その意味で、GDPのような「経済力」に対して「政治力」が評価された結果とも言える。

とはいえ、「人の数」は政治的な意思決定(≒投票)だけでなく、経済活動でも大きな力を持つ。生産や消費に対する影響力もさることながら、知恵を生み出すための「ネットワーク」としての潜在力ももつと思っていいだろう。

だから、以前使われた、「(結果としての、今の)GDP」よりも、「(今後の、可能性を示唆する)人の数」の方が、この先は影響力の源泉として評価されると考えられるのではないか。

そう考えると、Facebookの有り様は、単なる私企業として考えるだけでは足りないように思える。その時、新たな政治経済的な組織体として、企業や国=政府、あるいは、NPO/NGOのような既存のフレームを越えた存在として位置づける準備も必要になってくるのではないかと感じる。

Facebookは日本ではユーザー数が少ないので何かと黙殺されがちだが、日本の外に少しでも目を向ければ、様々な思考実験の機会を与えてくれる存在だと思う。一体どこまでユーザー数は伸びるのか、果たして私企業として上場するのか、それとも、異なるシステムを作るのか、などの視点から、今後も注目していきたい。

そして、その過程で、ユーザーが単なるmenbershipに止まるか、それとも国並みのcitizenshipを得るのか、あるいは、それらの中間形態(in-between)として新たなカテゴリーを生み出すのか、徐々に明らかになっていくものと期待したい。