過去3ヶ月のAmazonの本の売り上げにおいて、Kindleがハードカバーを抜いたという。
Amazon Says E-Book Sales Outpace Hardcovers
【Wall Street Journal: July 20, 2010】
E-Books Top Hardcovers at Amazon
【New York Times: July 20, 2010】
もちろん、本当の意味でポピュラリティを得たかどうか、というのはペーパーバックの売上との関連を見ないといけない。ハードカバーに対する利点は、値段、重さ、購入の容易さ、と簡単に思いつくから。iPadやnook等の他のe-readerによってe-bookの認知が進んだのも結果的にKindleでの購入を促したようだ。
さらにいえば、出版社の方もe-readerも市場の一つとして認識したことによって、e-book化される本が増える傾向にあるのもプラスに働いているようだ。出版社の事情にもよるだろうが、要は、昔あった、LPからCDへの移行やビデオからDVDへの移行によって、過去のアーカイブも再度売り出せるかも、という方向に向かいつつあるのではないか。音楽や映画で起こった「ライブラリー」の移行が、文字通り、本でも起こるということだ。
つまり、Kindleやnook、iPadによって、既存の本がデジタルでも読めるようになる。それによって、アクセス不可能になっていた過去の本=ライブラリーも現在出版されている本と同じように、ウェブを経由してアクセス可能になる。今のところ、アメリカの電子出版はこのあたりに焦点が当たっている。
つまり、アメリカはe-bookから始まる。
対して、日本は、どうやらbook appに照準が合いそうだ。
簡単にいうと、アメリカ発での世界商品としてKindleやnook、iPadが、さしあたってはe-book readerとして「とにかく機器=ハードとして」販売されてしまった。まず、その事実が既にある。
しかし、Kindleがもともとe-readerとした開発されたのと違い、日本の場合、e-book化を想定していなかった。だから、そのとりあえず、舶来のe-readerたちをどうやって活用するか、という方向に向かう。
で、結論から言うと、iPadの登場によって、e-bookではなくbook appの方に向かっている。この方向を支持する要素はいくつかあって、先に述べたように、既にハードがある。そして、そのハードの上でアプリを開発するソフトウェア技術者が多数いる。一方、本自体は電子化するメリットが出版社にあまりない。
とりあえず、現在の出版流通制度と現行の本の形態は互いに不即不離の関係にあるとしておく。全国津々浦々で同じ値段で同じ商品が買えるという仕組みは文化財への平等なアクセスという点ではウェブ時代以前には機能した。むしろ、ウェブ以後、というか、社会の情報化以後の問題は、ITの活用によってユーザー=読者のフィードバックがそれ以前に比べて遙かに容易になったため、結果として、マーケットの声に応える商品が増えてしまったこと。
(よくテレビ番組がつまらなくなったと言われるが、そのとき、テレビ局の人の反応はいや視聴率はとれている、あるいは、これだけの支持を得ている、というもの。つまりは、視聴者=ユーザーの欲望を実現しているのだから、番組がつまらないというのはあなたにとってつまらないだけだ、という立論が取られることが多い。実際、フィードバックを無視することは難しいので、この手の立論に対して有効に反論することは難しい。むしろ、こうしたフィードバックが満ちた制作体制の中で逃げとして出てきたのが、作家主義やスター主義への回帰で、一度でも大きな成功を納めた人物の登用が企画に不可欠になった。そして、メディア企業からすれば、そうした特定の人物は確率的に登場することに賭ければよい、ということになる)。
つまり、現行の書籍の形態は現行の流通にファインチューンした結果、生まれている。だから、本そのものをe-bookにする動機付けは難しい。けれども、既にハードもあれば技術者もいる。ということで、新しい革袋には新しい酒、とばかりに、新しいなにかを創る方向で、既存業界と新規参入希望者との均衡が取られる。もう一つ、日本の場合、アメリカと違って、エージェントのような作家の権利概念の管理主体が実は曖昧なままになっていた。このことが一連のe-book騒動の報道によって一般に知られることになり、そうであれば、テキストを電子化すること、あるいは、その電子化の際にはちょっと仕掛けを組んでみて「新しいこと、してみましょうよ!」と著作者を口説くための口上も出てくる。
そうしてbook appの方向に向かう。
つまり、従来型の本をそのまま電子化する(=e-book)のではなく、映像や音声を加えたり、あるいは、インターフェースをいじってみたり、というようにテキスト以外の要素をいろいろと盛り込んで、従来の本の概念とは異なる何かをアプリケーションとして提案する(=book app)する方向に向かう。
こういう方向でのトライアルがしばらくの間、続くのだろう。
たとえば、本の「土台や見た目」を変える、というのであれば、その極北的存在とし今までもVISIONNAIREのようなものがあった。これは果たして書籍なのか、と疑問に思うような何か。こうした試みがフィジカルにではなく、ソフトウェア的に、つまりは認識のレベルで試みられる、ということだろう。キメラ的存在だが、それが何かに化けてしまう可能性はもちろんある。その一方で、大コケする可能性もある。
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それにしても、この、先にハードがある、という状況は、日本では常にキメラ的な、その意味でapp開発のような事態を招き寄せる。身近なところで言えば、アメリカでは新聞はちゃんとウェブ版ができたが、先述の出版同様、商品と流通形態が分かちがたく結合していた日本の新聞はウェブが登場してから既に十数年たってもウェブ版に本腰を入れるような事態にはなっていない。
急いでつけ加えると、これは、だから日本の新聞はデジタル化に遅れてけしからん、と言いたいわけではない。単純に、ビジネスの生態系が異なれば全く異なる結果を後日招く、という例として挙げているに過ぎない。つまり、電子出版についても、アメリカの出版社についてはe-bookという既存商品(=本)のデジタル・ウェブへの移行が粛々と進むのに対して、文庫本と雑誌とコミックがドル箱になっている日本では、デジタル化するインセンティブが出版システムの内部で発見できない、だから、e-bookよりもbook appの方での進化を遂げる、と言うことなのではないかと思う。
繰り返しになるが、そうしたbook appの試みは大化けするかもしれないし、大コケするかもしれない。単純に今の読者は、既存の本の電子版が欲しいだけだった、ということかもしれない。その一方で、book appのようなものは、既存の本の概念を変えて、新しい読者、いや購入者を生み出すかもしれない。
本は買ったものが全て読まれているわけではない。その意味では「売れています!」という本の売れ方はどこか怪しい=妖しい要素がつきまとう。つまり、売れているから売れている、という以上の理由が見いだしにくい。そう思うと、過去20年間ぐらいは、本の表紙や装丁・帯は相当変わった。簡単に言うと、戸田ツトム的な、表紙にテキストの一部が書き込まれていて、それが平積みにされたとき、読者への誘因になる、というような試みはとても日本的なもので、たとえば、あの手の工夫はアメリカのハードカバーで目にしたことはない。
そういう意味で、戸田ツトム的装丁的なものが、まずはbook appとして登場することが続くのかもしれない。それは、何となく有名どころのデザイナーとソフトウェアエンジニアと出版社のコラボ、ということになるのかもしれない。
テキストや情報そのもの、つまり、書かれたもの自体に関心があるものとしては、単純にまずe-book化して欲しいところだが、しかし、book app的なものが前に出ると、本そのものの消費の仕方が代わり、それによって結果的に本の作られ方も変わると信じたい気持ちもある。
それには音楽のケースが参考になる。ドラマのタイアップや、カラオケの登場、あるいは、最近であればニコ動的MADの登場によって、音楽のあり方が変わった。正確に言うと、音楽の裾野を拡げて今まで音楽に触れなかった人が触れるようになり、その分、ポピュラーな成分が増した。だから、昔ながらの音楽好きはこうした新たな音楽の登場を不快に思う人も当然いるだろう。それがコンテント消費における「ジャンル」という境界線の力だから。
だから、book appによって生じる、キメラな本的なもの、に対して、従来の出版関係者、あるいは、読者、は眉をひそめるかもしれない。私もその一人になる可能性は否定しない。それでも、そのヘンテコなものの出現可能性については信じてみたいと思うのだ。