『神話が考える』は長門有希のトリセツである。

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April 01, 2010 22:52 jst
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junichi ikeda

福嶋亮大の新著『神話が考える』を読んだ。

ユリイカ連載時のものとは大きく異なり、福嶋自身言うようにマニュアル本的な装いになった。マニュアル本といっても実用書のようなお手軽なものという意味ではない。簡単にいうと、前から順番に読んでいけば一通り福嶋の言いたいことは素直に読めてしまう、という意味だ。

裏返すと、これは筆者である福嶋が最初に想定読者を頭に描きながら全体の内容構成の組み替えに試行錯誤した後書かれた本、ということ。つまり、デザインが行き届いた本。あえていえば建築物のような本。住む人がどんな人で、その人達の生活様式はこんな風で、だから、使い勝手はこうした方がいい、というようなことを予め想定し(あるいは読者と対話し)図面が書かれた上で、部材の選択や工期、時代状況を含めて作り上げられたもの。その意味で、「2010年現在」の「今」を多分に読み込んだ本になっている。

構成は非常に明快で、ある意味でとても英語的、というか、アングロサクソン的な本の作りになっている。前から読めばわかる。重要な概念は繰り返し主張される。読者の便を考えて、キーワード一覧も添付され、レファランスもしっかりしている。「はじめに」の構成に従って読めば素直に読める。本論から外れた内容で、しかし重要と思われるものはきちんと注に封印されている。

裏返すと文芸批評にありがちな韜晦で晦渋な記述、たとえば前に少し触れた前田塁『紙の本が亡びるとき?』のような持って回った書かれ方はされていない。あえてわかりやすくいえば、蓮実重彦的な、あるいは、フランス人文思想や批評にありがちな書かれ方はこの本では排除されている。その意味で、とてもアングロサクソン的と上で形容したわけだ。

このように、この本はとにかく読みやすい。ここまで読みやすさに目が行き届いているということは、つまり、この本を使って、皆、「神話」を紡ぐことに全面的に取り組もうではないか、という具合に、単なる神話肯定を超えて、人々に働きかける本=マニフェストを企図したのではないかとまで思えてくる。

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なぜ、このように『神話が考える』の記述の容易さから書き始めたかというと、この本の「結構」そのものが、この本のベースとなった雑誌ユリイカ連載時の原稿と大きく様変わりしているから。そこに何らかの状況の変化を感じずにはいられないからだ。

ユリイカの連載は、2008年8月号から2009年8月号まで続けられた。連載初期では、「神話」という一見奇異なテーマを立ち上げるために、「神話」「神話素」「神話の演算」など、神話という創造物生産エンジンの概要に関する記述から筆が起こされている。そこでは、おそらくは福嶋自身が当初着想を得たであろう、レヴィ・ストロースとロラン・バルトがまず参照され、記述のスタイルも、この二人の影響からか、自問自答しつつ論を訥々と進めていく、書き手の思考の流れがそのまま記されているような、フランス人文的(と私が日頃感じている)な淀みを伴った文体で書かれていた。行きつ戻りつ書き進める、書きながら思考を整理しようと試みている、という感じの書かれ方だった(関心のある人は実際に連載原稿に当たってみてください)。

ところが、今回上梓された『神話が考える』では、こうした淀みは綺麗に除去されている。この本では、冒頭で、

神話=文化における情報処理の様式(方式、アルゴリズム)

と極めて明快に、いわば公理のように定義されている。

この「神話」の項は、他のいくつかの用語、たとえば、「ハイパーリアリティ」「感情資本」「集団言語」などの言葉とともに巻末のキーワード解説に収められている。むしろ、このキーワード解説を常に念頭に置きながら、本文の記述相互間の整合性を高めるように、つまり、できるだけ公理・定理的な体系=システムとして『神話が考える』という本は記されたと考えていいと思う。

これはシンクタンクやコンサル・ファームなどで一定のボリュームをもつ報告書作成作業をしたことがある人なら了解できることだと思う。客観性を担保するために全体をどう構成するか、細部の記述の間に矛盾が生じないようにするためにどうするか、そして、全体が前からよどみなく読めるよう、承前関係をどう設定するか、書き手としての「私」をいかに消去するか、など。こうした客観文書にするための「バグ取り」作業が、この福嶋の本でもかなり丁寧に行われたような印象を私は持っている。

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福嶋のブログによれば、こうした記述の変化は、神話という様式によって現代日本(+世界)を語る根拠を、レヴィ・ストロースとロラン・バルトのようなフランス人文学の碩学から、ノルベルト・ボルツやグレゴリー・ベイトソンのような、生態学・システム論者へとシフトしたためだという。実際、福嶋自身ネタ本と言っているボルツの『世界コミュニケーション』を開くと、そこでは、ルーマンやハーバート・サイモンが召還されていることに気付く。

つまり、『神話が考える』は、サイバネティックスの古典にまで遡り、正統に今の情報化社会の背後にあるロジックを炙り出そうとしたことになる。

補足すると、サイバネティックスという学問体系はおおよそ1930年~50年代に、当時の通信工学、制御工学、人類学、神経生理学、応用数学、などが過激にクロスオーバーすることで立ち上げられた。第二次大戦後、こうした分野の一線の研究者を集めてNYで開催されたメイシー会議が発端と言われる。福嶋が今回参照したベイトソンも『精神の生態学』の中でメイシー財団を通じた異分野の学者との交流が彼の「サイバネティックス」に関する思考の出発点であったと記している。

時代の先後を踏まえれば、レヴィ・ストロースやバルトも、ベイトソンらが開いたサイバネティックス=情報通信科学・工学の世界観、情報を中心に据えた世界観の影響を受けた中で彼等の思考を進めたと考えていいだろう。たとえば、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』のプラトーはベイトソンを参照しているという具合に。

一方、ハーバート・サイモンは、人工物工学、すなわちデザインの工学を打ち立てて、その後の経営工学や認知工学に多大な影響を与えた学際的な学者。サイモン自身、ノーベル経済学賞を受賞しているし、彼が拠点としたカーネギー・メロン大学は、スタンフォードとMITに並び称されるアメリカの情報工学のメッカだ。人間の認知限界に注目し「限定合理性(bounded rationality)」を提唱したのもサイモンだ。その意味で今日興隆著しい行動経済学の始祖の一人でもある。

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こうしたサイバネティックスの流れにまで遡って2010年代の情報化が行き渡った(と了解される)現代社会の文化現象を捉えよう、そして、その動きを肯定し、徹底させよう、というのが、福嶋の意図のように思えてくる。

もちろん、連載時の2008年(着想時の2006-07年?)と比べて2010年現在では、TwitterやUstの興隆によって、実際にウェブ上では神話変換のような方法で生成された文や創造物が圧倒的に増え、それを日々経験することが可能になってしまった。こういう状況の変化=事実も、ボルツへの戦略転換を後押ししたのだろう。

福嶋の新著はこうした2010年日本(そして世界)の「事実性」を徹底的に認めている。

おそらくは、ボルツ本を屋台骨とすることで、ベイトソン、ルーマン、サイモン、らを召還することの見通しが極めてよくなったことが、事実性の肯定を強く打ち出すことを可能としたのだろう。

(むしろボルツ本や過去のユリイカ連載に対して、『神話が考える』で示したハッキングを実践したのが『神話が考える』という本だということもできると思う。その神話の精神=ハッキングの精神を言祝ぐからこそ、福嶋自身、ボルツ本がネタ本だと公言して憚らないのだと感じる。ネタ本はあって当然、むしろ、そのネタ本からどれだけ遠くに行けるかこそが神話の力だから。そうやって福嶋自身が神話の中にあることを認めているわけだ)。

たとえば、現代社会の描写を、ボードリヤールがかつて指摘した「ハイパーリアリティ」に満ちた消費社会からスタートし、

ポストモダン社会=情報化社会

と状況肯定型の定義も与えている。

ITをポストモダン社会の最大の駆動因と捉えることで、現代の日本、そして世界を「ポストモダン社会」と名指すことも躊躇せず行われる。

現在の肯定の最たるものは、現代社会をリチャード・ローティのいう「リベラル・デモクラシー」の枠組みを受容したもののして捉えているところ。一人一人が自分の生活様式を自由に(フリーに)選択可能だということを全面的に認めた上で、仮初めにでもその係留点としての生の選択を与えることが必要となる。そのための生の選択機会を見いだすものとして、ルーマン流の、コミュニケーションが基底となる、オートポイエーシス的な自走システムが肯定される(ローティといいルーマンといい、通常は「保守的」と取られる人たちだから、福嶋はそうした「保守性」の更新も企図しているのではないかと感じている)。

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さて、いよいよ(ようやく?)ここで、

『神話は考える』は長門有希のトリセツである。

という本エントリーのタイトルに移ることになる。

長門有希というのは『涼宮ハルヒの憂鬱』の登場人物の一人(『ハルヒ』についてwikipediaあたりで参照して下さい)。

物語内で長門有希は「宇宙人」として要約的に記されるが、wikipediaによれば、正確には「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」という存在(笑)。簡単にいうと、外見がヒトガタの人形。もっとも有機体として組成されているから実質的には人間と変わらない(こういう存在はSFやラノベではよく登場する)。そして、彼女の送り手である「情報統合思念体」が「宇宙」ないし「宇宙人の親玉」として想定されている。さらに長門の創造主であることを考えると一種の「神」と読み替えてもいい。

つまり、

情報統合思念体=宇宙=universe=神

で、この枠組みでいけば、長門はいわば「天使」のような存在と考えてもいいだろう。

(そして、「天使」という位置づけで以下思いついていることはむしろ映画『ベルリン天使の詩』に基づいている。なお、『ベルリン天使の詩』は是非ドイツ版を。ニコラス・ケイジ主演のハリウッド・リメイク版はハリウッドらしいロマンスものになっていていまいち)。

実際、『ハルヒ』の物語の中では長門は「天使」のように、破格の能力者として位置づけられている。彼女のオールマイティーな能力がしばしば予定調和的(ご都合主義的)に、水戸黄門の印籠のように使われ物語が収束することは多く、それがラノベ的読みやすさ(=予測のたてやすさ)に貢献している。

余談ながら、他の登場人物には、超能力者(古泉一樹)や未来人(朝比奈みくる)がいるものの、超能力者は「超」・能力限定であるがゆえに徒党を組んで組織をつくらないと活動できなし、未来人はテクノロジーは進歩するが人間の本質は変わらない、というある意味で普通の「人間」である。その分、長門の「破格ぶり」は際だつことになる。未来や過去を見通す、目の前の天候を変える、時間遡行する、などなど。つまり、物語世界の基盤に介入し、ハッキングする力を長門は持つ。

・・・とこの話ばかりしていると前に進まない(笑)ので、ちょっとジャンプすると:

長門は、神から遣わされた天使のような存在として「観察者」に徹する。しかし、物語が進む中徐々にその観察者の立場を捨て、自ら能力限定の縛りをかけ人間に近い存在となることを選択していく(その傾向の暴走を描いたのが『消失』。ちなみに映画は未見)。

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『世界コミュニケーション』の「はしがき」の中で、ボルツはルーマンの社会システム論を紹介している。

社会システム論の枠組みによれば:

●人間は神に取って代わる、人間は超越者になる。

●従来「超越論的」として論じられてきたものは「セカンドオーダーの観察」によって扱われる。

●語られたことは全て観察者が語ったこと、だから、脱構築可能。(ルーマンとデリダの共闘)

●観察の際の「区別」をずらすことで新規の区別が生まれる。

●区別を大事にしシステムを観察している限り、ゴールも終末もありはしない。

要するに、ルーマンによれば、人間の「主体」は後退し(消失し)、コミュニケーションだけが残る。

福嶋もまとめているように、人間は、オートポイエーシス的な再帰性が支配する世界=ポストモダンの情報ネットワーク社会で、複雑性を縮減するための結節点、係留点になる。裏返すと意志など持たなくても、人間は係留点として神話演算装置の命じるままに自動的に何かを語るし、何かを創り出してしまう。この人間を創造にしむける存在が「神話」となる。環境・情報という豊饒なアーカイブ=客体が優位になって「神話(こそ)が考える」。だが、その一方で、神話は「人間」という依り代を通じて具体的な形を得る。神話のアーカイブは情報の海であり、そのままでは認識は不可能だ。

この「神話-人間」の関係は、上で記した「情報統合思念体-長門有希」の関係と同相ではないだろうか。

長門は自らの意志を当初もたない。神話同様、「情報思念体が」考え、長門はそのターミナルとして振る舞う。しかし、その一方で長門を通じて情報思念体は「宇宙人」としての形象を得る。

だから、『神話が考える』は長門有希のトリセツだ。

神話というアーカイブ、神話という演算装置の中で私たち人間がどう振る舞うか、その指南書が『神話が考える』であるからだ。

そう考えると、長門が情報思念体の干渉を少しずつ退け、人形から人間へと向かうプロセスには、私たち人間が神話の網の目の中でいかにして振る舞っていけばよいのか、暗示しているようにすら思えてくる。

映画『ベルリン天使の詩』では尖塔からベルリンの街を俯瞰する天使のショットから始まる。天使が眺める下界=人間の世界は白黒映像の世界だ。しかし、天使が人間になると決断し人間界に飛び降り着地した途端、画面に色彩が戻り、以後カラー映像となる。長門が人間的に振る舞おうと選択するプロセスもこれになぞらえることができるのではないか。

そして、ルーマンのオートポイエーシスな世界で(セカンドオーダーの)観察者こそが超越者の地位を占めることを考えれば、天使=長門の取る道は、彼等の存在の変容だけでなく、彼等を取り巻く世界の変容をも同時に意味する。垂直方向の高みに超越者がいる世界から、水平方向の同じ地平にいる、隣に立つ存在が超越者となる世界へと、天使=長門が存在する世界自身が変容していくわけだ。

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『神話が考える』は現在のネットワーク社会を全面的に肯定している。全面的に肯定することに賭けているといってもよい。その賭けを成立させるために、現状肯定が惹起しか兼ねない陥穽から抜け出す手だてが必要になる。そのために福嶋は二つのスケッチをしている。

一つは、「神話素」による壊乱。

近年、情報ネットワークによる文化が肯定的に捉えられるようになった背景には、ワッツ=ストロガッツらによって、スモールワールドネットワークの理論が紹介されたことがある。タコツボ化の危機はハブとなる存在が社会にあることで意外と回避される、という見解が、ネットワーク科学の世界から、経験的知見として提示され、それが故に、逆に「タコツボ化してもオッケー!どこかにハブがいてくれるから」ということになっている。スモールワールドネットワークはタコツボ化のいわば免罪符として機能しているといっていい。

「神話素(レヴィ・ストロース)」はこうした「ハブ」を見出す契機となるものだ。神話素は異なる文化圏の間を貫通する媒介項となる。そうした神話素を高速で発し続けることで、異文化間を架橋する契機が得られるのではないか。そのような期待が込められているようにも見える。

神話素は、異文化間で共通に視認可能な存在として、レヴィ・ストロースが『神話論理』などで記述したアメリカ大陸であれば、自然環境に存在する動物がその役割を果たしていた。それに準じるものは、ネットワーク化によって強化された人工環境の現代においては、有名性の高い商品やキャラクター、あるいはその「固有名」となる。つまり、流通可能性の高いものが今日の状況で「神話素」となりうる。誰もが共通に利用できる資源としての「自然」を人工物の中に見いだす。人工物ならびにその人工物を遍在させる流通システムを含めて、人工物が自然と同等の利用可能資源となっている。

この点でも、福嶋は、「ポピュラー」であることを全面的に支持しているように思える(そして、それがゆえに、ともすれば、ハイアート、純文学、のようなハイカルチャーを想起させるフランス人文的なスタイルを回避したように思える。徹底的に線形の記述に拘る、アングロサクソン的な痩せた書き方に徹することで)。

もう一つは、ローティを批判するジジェクに言及していること。この言及が本文の序章と最終章で繰り返されていることを踏まえれば、『神話が考える』で記述した「神話エンジン」について、後日福嶋自らが更新なり刷新を図る戦略があることを示唆していると思う。

ローティに基づくリベラル・デモクラシーでは公私を二層に分ける。これに対して、ジジェクは、カントを引き合いに出しながら批判を加えている。その批判を踏まえて、公私の可能性について、つまり、私的世界に止まってしまうことをともすれば肯定してしまうローティの図式を批判的に検討するプログラムが『神話が考える』の最後に記されている。

ジジェクは、ローティの立場を名指すとき、capitalist liberal democracyというように、capitalistを冒頭に付けることを忘れない。ローティの視点は資本制を全面的に前提にしたものであることの指摘だ。このリベラル・デモクラシー批判は、最近訳出されたジジェクの『大義を忘れるな』でも取り上げられている。

このジジェクの視点を福嶋は意識した上で、仮置きの、第一段階の現代社会の近似像として『神話が考える』と記したのではないだろうか。

当然、続きはあるはずだ。

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以上、『神話が考える』について。

何故こんなことを書いたというと、やはり『神話が考える』が想像していた以上に読みやすかったことによる。そのわかりやすさから、かえって、単なる一過性の文化事象を追った「状況論」として解釈され消費されてしまうのではないか、ということを危惧したからだ。

福嶋は、この本によって、彼の考える現代文化批評の一里塚、橋頭堡を築いたと思いたい。当然、この後に、日本といわず、東アジア圏をまずは含んだ、ポピュラーカルチャーの高速流通文化圏の可能性について、彼の中国文化の博学な知識に支えられた、現代中国語圏のアクチュアルな状況報告に根ざした文化批評のプログラムが実践されることだろう。

村上春樹や英米のパルプフィクションから中国の武侠小説まで取り込む福嶋の幅広い視野は、従来の西洋、東洋の枠組みを超え出た、Asia-Pacific時代の、環太平洋の文化批評の核となるパースペクティブを提供してくれるものと、私は夢想している。

おそらく『神話が考える』は折に触れ読み返すことになるだろう。

今後も福嶋の言動には注目し続けていきたい。


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追記(2010/04/02)

『神話が考える』の第5章におけるドゥルーズ『意味の論理学』の解釈を巡って、福嶋亮大と千葉雅也との間でTwitter上で議論が交わされている。

千葉は前に観覧したフランス大使館シンポジウムにも登壇したドゥルーズ研究者。パリ留学時に師事したマラブー(この人はデリダの弟子)の提唱する「可塑性」の概念を活用しながら、東浩紀『存在論的、郵便的』の問題意識の発展的継承を試みようとしている。千葉の博士論文についても、書籍としての刊行が待たれる。

このように千葉のようなドゥルーズ研究者と議論が生じるところから考えて、『神話が考える』は理論的強度を伴った論争的な本という側面ももつことがわかる。