Craigslistの創設者であるCraig Newmarkが、San Franciscoを中心とするBay Areaのカルチャーについてインタビューを受けている。
The Ups and Downs of Being a Tech Nerd
【Wall Street Journal: March 18, 2010】
Craigslistはもともと掲示板サービスから始まったのだが、普及が進んでいくうちに、その掲示板に求人情報や不動産情報が自主的にポストされるようになり、いつの間にか全米でこうした商業利用が当たり前になった。識者によっては、Craigslistによって、新聞のclassified adが食われてしまって、収入減につながったという人もいる。全米で17番目にアクセス数の多いサイトという事実もこのサイトの有用性を物語っている。もちろん、掲示板サービスの常として、いい面ばかりでなく悪い面もある。売春斡旋や非合法商品の売買などの温床、という指摘や非難もあり、いくつかは実際に社会問題化している。
いずれにしても、それくらい社会的影響力のあるサイトとしてCraigslistは位置づけられている。その創設者がCraig Newmark。
上のインタビューではいくつか興味深い発言をNewmarkはしている。
たとえば、Bay Areaは一般に思われているよりも保守的だ、というくだり。いうまでもなくSan Franciscoは60年代に対抗文化の中心地であった。その代名詞が音楽ムーブメントであったSummer of Loveなわけで、そのイメージがいまだにSan Franciscoには重ねられることが多い。だが、Newmarkによれば、今ではそんなことはなく人々はもっと保守的だという。破壊的にリベラルだというわけでもなく、むしろ、普段の生活は穏やかで、彼の周囲の人々は、周りのものごとを気遣っているタイプだと語っている。
もっとも、全米では、分裂よりも共通するものの方が多いと応えている当たりは、保守的というようよりも共同体志向的であることを示唆していて、ジジェクいうところのliberal communistというような、伝統的なレフト/ライトの二分法には納まらない、中庸の心性を有しているという方が適切なのかもしれない。
このインタビューで個人的に一番興味深かったところはBay Areaを形容するのに“technology ferment (技術の発酵)”という表現を使っているところ。「発酵」というのだから、技術は時間を経るうちにあたかも酵母によるかのように熟成されていくことを示唆しているし、「発酵」というのだから、その技術は一種の苗床のようなところに置かれていることもイメージされる。このあたりは、ジットレインいうところの、generativity(生成性)がそのまま街や住民の中にしみこんでいるように感じられて興味深い。もちろん、その技術はITだけではなくバイオやグリーンも含む。
そうした技術開発に取り組むに当たって、Bay Areaでは失敗を恐怖することが他の地域に比べて少ないとNewmarkは応えている。失敗してもう一度トライすることもできるし、以前は技術開発で競合していた企業で働くことすらBay Areaではできるという。だとすると、Bay Areaの技術者にとっては、どこかの企業に所属していることは大きな技術開発を行うための一つの手段にすぎないのではないかと思えてくる。とんでもない技術開発をすることが最終目標であって、そのためにどこに所属するかは一つの状況に過ぎない、というような姿勢があるということ。
もっとも、このように信じることができる時点でBay Areaが技術者にとってのコミュニティとして強固に存在していることも透けて見えてくる。そうしたところは、インタビューの最後ので、とてもgeek的でありnerd的で生活態度のエピソードからも窺い知れる。
Newmarkは、自然が好きだが僕は同時にカウチポテト族だからということでリスや鳥のえさ場や籠を用意しながらそこに集まってきた鳥やリスをカメラで撮影しながら家の中で眺める。それを好んでしているという。このことの価値判断は脇に置けば、これもまた一つのライフスタイルだ。そうしたライフスタイルがありなのも、またBay Areaなのだろう。
もちろん、NewmarkがBay Areaを代表する人物だというつもりはない。仮にそうだとしても、これぐらいのインタビューで全てがわかろうはずもない。だが、一つのイメージをつくることはできるだろう。もちろん、それは、ウェブで介されて届けられたこのWSJの記事によってでしかない。もっとも、ウェブを介した、媒介された情報を見ているという意味では、私も、あるいは、このエントリーを読んでいるあなたも、Newmarkとたいして変わらない。私たちは私たちで、ある意味で、鳥やリスを眺めているのと同じ状態にあるわけだから。
さらにいえば、媒介された現実に触れているという点では、ウェブもテレビも、その他のメディアも変わらない。だから、Newmarkの姿はある意味私たちの姿でもあると思っていいようにも思う。あくまでも、一部分だと思われるが。
とはいえ、気になることがあって、それは「テクノロジーが発酵する場所。Newmarkが感じる、技術の苗床のような場所は、Bay Areaの外にもあるのだろうか。あるいは、私たちの傍にあるのだろうか。これは彼我の差を作るものなのかもしれない。
短い割にはいろいろと空想を巡らすことのできる、面白い記事だった。