2010年1月27日は、アメリカにとってメモリアルな一日だった。
First State of the Union speech by President Obama: 'We face a deficit of trust'
【Washington Post:January 27, 2010】
SOTU(State of The Union:一般教書演説)が大統領から示される、儀礼的だが重要な一日に、あえて、新機種であるiPadを発表してきたSteve JobsのApple。アメリカの進路と舵取りが示される日に、2010年代のPC/Webの世界の水先案内人となるプロダクトがお披露目された。
Apple Takes Big Gamble on New iPad
【Wall Street Jounal:January 27, 2010】
その評価やいかに、というノリで普段見ているニュースサイトやブログサイトをチェックしているうちに気付いたのが、SOTUやiPadに負けないくらいニュースの専門家の間で取り沙汰されていたのが、Ben BernankeのFed Chairman続投の話。Bernankeの続投には、連邦上院の承認が必要で、それが今週金曜までに行われる。そのため、今、アメリカの(庶民ではなく)政治家や企業重役の最大の関心事の一つがBernankeの続投問題になる。iPadやSOTU同様、ホットな話題になっている。
The Fed’s Best Man
【New York Times:January 27, 2010】
Bernankeの承認については「捩れ」が生じていて、前任のブッシュ大統領に指名されたにも関わらず、リーマンショックをはじめとする金融不況を回避できなかった、金融機関救済策の「アーキテクト」の一人として、Wall Streetは救うがMain Street(アメリカ製造業)は救わない、という理由で、かつての支持者であったGOPによって非難されている。
その「庶民の生活を守る」ことに重点を置くことが、今日、SOTUで強調された。ヘルスケア改革のような、デモクラットの悲願の達成に固執するのを一端棚上げし、雇用問題を重視する。だから、改めて、新産業の立ち上げに注力する、それには、代替エネルギーや、ブロードバンドの分野でのイノベーションが大事になる。
そのイノベーションの典型が、iPod以後の快進撃を続けるAppleであり、10年代前半のフラグシップになるプロダクトがiPad、ということになる。
ということで、ぐるりと話題は一回りする。
iPad
SOTU
Bernanke
さながら、三題噺のように、三つの大事な要素、すなわち、
技術
政治
金融・経済
が交叉し、循環する。
皆既日食というか、惑星直列というか、そんな感じで普段は交わらない「世界の構成要素たち」が同じ日にシンクロして話題となる。
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確認しておきたいのは、そういう日に、iPadが公表された、ということ。
SOTUは予め日程が決められているのだから、その日にAppleが合わせてきた、というのが妥当な見方だろう。というのも、いわゆる「新聞の一面トップが何を飾るか」という観点でいえば、なにもわざわざSOTUが伝えられる日にiPadを発表する必要はないわけだから。
だとすれば、iPadはSOTUと並んで伝えられることをむしろ選んだのだ、ととるべき。
SOTUによって、アメリカの未来とか、世界の未来とか、社会に関心のある人ならば、誰もが思いを巡らしてしまう、そんな日に、その「未来」のイメージの一つとして、iPadを差し出す。
(そして、その「未来探究」モードの心持ちで報道記事を読むから、私のように、Bernankeのことまで、そうした未来の一つとして捉えてしまうわけで。思い切り、そうしたムードに捕まってしまったわけだ)。
だから、「ただのでかいiPod Touch」という、マックヘビーユーザーの冷めた見方に対して、そのiPadの姿に、まだよくわからない「2010年代のイメージ(の一つ)」を見いだした人たちは、基本的には「とても肯定的に」iPadの可能性に賭けようとする。
そして、できるだけPC/Webとの「歴史の断層」を見いだすような発言をしている。
ググればわかるけれど、意外と、iCountryとかiWorldとか書いている人はいるもの。たとえば:
iCountry News
【New York Times:January 27, 2010】
The PC Officially Died Today
【The New Republic:January 27, 2010】
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実は、最初は、いつものように、WSJやNYTを引きながら、iPadの可能性の細部について、いろいろと書いてみようと思ったのだけれど、そうした内容を見てみると、大体、年初に書いたこのエントリーあるいはこのエントリーと内容がかぶっていて、ちょっと違う視点から今日の出来事を記しておきたいと思った。
iPad Blurs Line Between Devices
【New York Times:January 27, 2010】
念のため、iPadの可能性=期待で喧伝されていることを記しておくと:
●PCとSmartphoneの境界をなくし、新商品カテゴリーを産み出す。
●3G(電話会社)とWi-Fi(PCメーカー)との「無線接続」の競争を促す。
●メディアビジネスが集約される(雑誌・出版、新聞、テレビ、ラジオ、・・・)。
●特に、Kindle vs iPad、Amazon vs Apple
一言でいうと、Silicon Valleyの長年の夢であった「マルチメディアの完成型=Dynabook」の実現に邁進する動きが、iPadによって引き起こされる、ということ。
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ところで、プレゼンテーションの中継映像を見ると、Jobsの立ち居振る舞いが、どんどんClint Eastwoodに似てきているように思えてならない。白いシャツにデニムのジーンズ。背筋が伸びてスクッと立つ姿。同性から見ても見とれてしまう感じ。
世代は全く異なるけれど、どちらも2000年代に、西海岸的といわれる「リバタリアン的心性」を、かたや映画で(Eastwood)、かたやガジェットで(Jobs)で、具体的に、アメリカ人、そして、世界中の人びとに示してきた。
リバタリアン的心性、というのは、もとはアメリカの独立自営農民に備わっていたといわれる、なんとか自分自身の力で生活を切り開いていく、気概のようなもの。
わかりやくいえば、DIY(Do It Yourself)の精神。
『グラントリノ』でClint Eastwoodが演じた主人公のように、ガレージに工具を全て揃えて、何かあったら自らの手で直して回る、そうした自主独立の精神(そういえば、Apple IIもガレージからスタート)。
こうしたリバタリアン的な自主独立の精神は、第三代大統領トーマス・ジェファーソンが描いた、アメリカを西海岸まで続く大陸国家にしようという夢=試みを、個々の具体的な局面で支えた、アメリカ人的な生き方の典型。そして、生き方の範型であるため、それは、「思想」でもある。
今朝のTwitterで東浩紀がこうつぶやいていた:
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「やっぱりAppleとかGoogleって「思想」なんだよなあ。商品を売っているのではなく「生の新しい様式」を売っている。そして夢を売っている。それができなければ技術者も経営者も思想家もだめだ。」
「American way of life は確立している。ハリウッドもマクドナルドもグーグルもアップルもすべてその延長線上にある。だからそれらは統合した強さをもっている。」
「ちなみにアメリカのそういう理想というか夢(自由と民主主義の実験場としてのアメリカ)は、植民地時代から一貫しているわけで、そういう世紀単位の話をしています。」
「アップルやグーグルが思想であり、「新しい生の提案」であることの意味を、単純に「新商品カッコイイ」とかでなくて、きちんと噛みしめるべきだと思うな。これは別に今回にiPadに限らず。」
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この「新しい生の提案」を産み出している「思想」の一つが、たとえば、上で記した、JobsやEastwoodによる「リバタリアン的心性」であると思う。
もちろん、リバタリアン的心性だけが「新しい生の提案」をしているわけではない。マクドナルドやウォルマートは、西海岸的というよりも、もっと南部の生き方を反映したものだと思うし、その時には、南部の広大さに適した「ロジスティックス優先」の商売人的「合理性」も働いている。
あるいは、ハリウッドということであれば、“Avatar”によって3D映画というベンチャーを興したJames Cameronの生き方も、そのまま一つの思想のようにもとれる(これはまた別の機会に)。
だから、冒頭に記したように、SOTUのような、アメリカ人一般の「これからの生」を大きな部分で決めるような話=政策方針の説明をしているときに、Jobsが一つの「新しい生のあり方」を具体的に提案することに、単なる商品提案以上の意味が必然的に発生してしまう。
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また、Bernankeの続投、という話は、これはまた極めて東海岸的なロジック、つまり、自主独立とは位相の異なる、いわば「知識人の責務」といってもいいような、プロフェッショナルの矜持を大事にする話として、iPadやSOTUに比べればとても小さなサークルの中でだが、極めてシビアな論戦が公の場=マスメディアを通じて繰り広げられている。Bernankeを非難するもの、擁護するもの、それぞれ容赦ない言葉が、一人の個人を巡って発せられている。
これは、東浩紀が同じく今日のTwitterで発していた「あのアメリカでなぜ教養が生き残っているのか」という問いとも関わる話。アメリカ社会というシステムがプロフェッショナルに「委託」した判断を、代理人(Agent)としての責任を全うする形で請け負う気概、ともいうべきもの。
貴族なきアメリカでなぜか生き残っている、貴族的な「ノブレス・オブリージュ」の精神、つまり,リパブリカン的な、共和主義的な精神が、そこでは発動している。
それは、アメリカのトップ層はトップ層で、特に東海岸の独立13州の名家出身の人びとの間で共有される、欧州大陸文明への憧憬の裏返しとしてのものなのかもしれない。
ワシントンDCにあるアメリカ連邦議会図書館(Library of Congress)を訪れたとき、そのホールの天井や壁には、欧州大陸の文明を引き継ごうとする意志を表す図象が多数、描かれていた。
西洋文明の源泉である古代ギリシアやローマの昔から現代に至るまでの、西洋文明の哲人・賢人が描かれていたり、あるいは、中世の学問体系であった、神学・医学・法学、そして、自由七科(いわゆるリベラルアーツ)がホールの天蓋に記されていたり、という具合に。
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以上をまとめてみると:
まず、iPadやJobsは、西海岸的なリバタリアン的心性という生き方=「思想」によって「新しい生のあり方」を具体的に示していた。
次に、Bernankeをめぐる議論では、東海岸的な西洋文明の継承者の自負に基づくリパブリカニズム的な「共和的精神」の生き方=思想によって、これからの「新しい生のあり方」の基盤=アーキテクチャの設計で鎬を削っている。いうまでもなく、Fedの金融政策というアーキテクチャは私たちの「経済的生」の自由度を大きく規定する。
そして、オバマのSOTUは、こうしたアメリカの「新しい生の提案」の根底にある複数の(政治)思想を、一つの織物に仕立てて、わかりやすい言葉で人びとに語った。それが、当面は国内の経済問題に集中するという、クリントン時代のcenter寄りの政策発想への軌道修正になっている。
(ただし、Smart Government=賢い政府、を標榜したオバマからすれば、社会情勢によってcenter寄りの政策を採らざるをえなくなった、というのは、実は望ましい方向転換なのかもしれない。確実な一歩を踏み出していく、という意味で)。
これらが、技術(iPad)、経済(Bernanke)、政治(SOTU)、というように、日頃はクロスしないものが、一日の話題として集約しているのがとても興味深い。
そういう「集約」「収斂」という文脈を想起させることで、一つのアメリカの物語が紡がれる。その物語を起点にして、「新たな生の様式」がまた新たに模索され、提案されていく。
だから、2010年1月27日は、アメリカにとって後になって振り返ってみれば、メモリアルな一日であったと位置づけられるのでないか。
そういう大きな予感を、三つの話題の集約はもたらしてくれるように感じている。
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追記:
Bernankeの続投は、アメリカ時間で1月28日(木)に承認された。上院の投票結果は70対30であった。