Googleが自社デザインのAndroid phoneであるNexus Oneを発表した。
以下で、直接の競合であるiPhoneやBrackBerryとのスペック比較や、販売方法の違いなどについて言及されている。
Google's Nexus One Is Bold New Face in Super-Smartphones
【Wall Street Journal: January 6, 2010】
Google Rolls Out Nexus One, Its Rival to the iPhone
【New York Times: January 6, 2010】
総じて、iPhoneがTabletに向かう新たな商品カテゴリーの可能性を示していたのに対して、Nexus Oneはもう少しベタに、PCユーザーやBrackBerryユーザーを対象にしているように見える。その分、phoneの要素が後景化しているように思える。
そうした状況は、NYTの記事中にある、
Smartphone = versatile computing device 多用途計算機器
という説明がうまく言い当てている。
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細かいところを挙げればいくらでもいくらでもiPhoneとの商品上の違いや設計上の違いは指摘できるのだが、それ以上に大事なのは、Googleが、従来のphone市場の常識となったビジネス慣習を組み替えていこうとしているところ。
このあたりは、Appleの動きとは少しばかり異なる。
iPhoneは、既存の(携帯)電話企業=キャリアと手を組んでビジネスを始めたにもかかわらず、app storeを通じて、ビジネス的広がりの多くをAppleの手柄にし、smartphoneといえばiPhoneであり、その市場を牽引する会社はAppleといわれるまでになった。いわば、iPhoneは既存の携帯電話ビジネスに寄生したようなもの。宿主たるキャリアから当初の栄養分を取りながら、自らのほうが宿主よりも成長してしまった。
これに対して、Nexus Oneは正面突破で、携帯電話ビジネスのあり方を組み替えようとしている。それは、直接的には販売形態であり、キャリアフリーで購入した後キャリア選択ができるというような、ガジェット提供会社(メーカー)とキャリアとの立場の逆転であり、それによって、PCメーカーとISPのような関係を、ワイヤレスの世界にも導入しようとしているように見える。
だから、Nexus Oneは、phoneというよりは、そのまま、「versatile computing device(多用途計算機器)」と呼ぶ方が望ましいことになる。むしろ、versatile computing device =VCDを新たなカテゴリー名として採用したいくらい。
そうやって、Googleは、Nexus Oneを通じてワイヤレスにおける電話型ビジネスからの離脱を図ろうとする。
もちろん、記事にあるように、GoogleがPCインターネットで築いた地位(要するにサーチ・アドでのナンバーワンというポジション)を、ポータブル型のコンピュータ機器の世界でも維持したいから、というのが初発の動機だろう(だから、AdMobのようなモバイル専業広告会社の買収に対しては、反トラスト法の観点からの検討が必要になっている)。
First touchのcomputing deviceとしては、PCよりもポータブルのものの方に移行していくことは、日本ではケータイの利用で経験済み。こうしたトレンドを見越して、ワイヤレス・インターネットにおけるビジネス慣行を、ワイヤード・インターネットにおけるビジネス慣行と容易に接続可能なものしておきたい、というのが、Googleの考えの基本だと思う。
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面白いのは、Googleが講じる策が常にOpen Source流の発想に基づいているところ。
iPhoneのAppleにしても、WindowsのMicrosoftにしても、中核のシステムはproprietary(独自・非公開)として扱われている。それに対して、Androidにせよ、Chrome OSにせよ、GoogleはOpen Source流で、それらproprietary systemの維持自体を無効化するような策を講じる。
これは、昨日のエントリーに引き寄せて考えると興味深い示唆のように思える。
AppleのSteve Jobsにせよ、MicrosoftのBill Gatesにせよ、彼らがPC第一世代の象徴であることは間違いない。だから、Googleの講じるOpen Source流的思考様式は、Bay Area的想像力の第二世代を縁取る思考方法の候補の一つといっていいのかもしれない。
つまり、広い意味で、Web的文化は何か(X)とともに組み合わせた形でしか存立し得ないような存在になるということかもしれない。たとえば、Xが環境であればSmart Gridというように。
裏返すとWebを人間の自然言語並みに普遍的な存在=環境にすることがBay Area的想像力第二世代の基本的発想になるということもできそうだ。
それは言葉(たとえば日本語や英語)のように原則として誰もが利用可能=アクセス可能なものであるということ。その一方で、識字力というものの多くの部分が、実は初等教育の賜物であることを踏まえれば、何らかの形で公的な存在からの恒常的なサポートが必要な存在としてWebを位置づけていくことも必要になる。
こうした考えは、さらに敷衍すれば、“Social”という現行のWeb特性を拡大する方向で第二世代の想像力が彫啄されていく、ということなのかもしれない。
いずれにしても、Open Source流の考え方を、想像力の源泉という観点から鍛え直してみることは、今後の想像力を構想していく上で、いい思考実験になるように思える。
Nexus Oneの試みに対しては、ハードやサービスの次元からではなく、どうしてこんな端末が生まれてしまったのだろう、その背後にある設計思想は何なのだろう、という点から見直してみることは、意味のあることだと思う。
あるいは、単にNexus Oneに限らず、およそ商品として市場交換されるもの全般に対して、どうしてこのモノは今目の前にあるのだろう、などと発想してしまうこと自体が、一つの想像力のひな形につながるのかもしれない。
もちろん、上に書いたことは、Bay Area的想像力第二世代の一つの可能性に過ぎないわけだけど。