Tabletで始まるディケイド: PC/Webに関するBay Area的想像力の臨界への到達・突破の予感

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January 05, 2010 22:06 jst
author
junichi ikeda

前々から噂されていたAppleのTablet Computerだが、どうやら今月末には公表、3月には発売、というスケジュールのようだ。

Apple to Ship Tablet Device in March
【Wall Street Journal: January 4, 2010】

タイミングを考えればこの記事はリークなのかもしれない。というのも、ラスベガスでCESが始まる直前ということでもあるし、明日Googleが自社デザインのAndroid PhoneであるNexus Oneを公表する予定であるから。

Google Moves to Keep Its Lead as Web Goes Mobile
【New York Times: January 4, 2010】

Tabletは、今年、というか、向こう10年間の、このディケイドのWeb/Computer文化を水路づける商品として期待されている。10年前のiPodのように。

このあたりのことは、年初にあった次の記事が上手くまとめている。
Ten Technologies That Will Rock 2010
【TechCrunch: January 1, 2010】

10のキーテクノロジーとして掲げられているのが:

The Tablet, Geo, Realtime Search, Chrome OS, HTML5, Mobile Video, Augmented Reality, Android, Social CRM

基本的には昨年話題になった技術ばかりだが、この並びで考えれば:

まず、中核になるガジェットがTabletで、それは、

商品カテゴリーとして、PCとSmartphoneの領域壊乱を行い、
サービスとして、Webの成果を多数取り込むことになる。

その、サービスを取り込む方向性としては、二つの軸があって:

一つは、e-readerからの類似性から従来マスメディアの取り込みを図る軸。

まず書籍や雑誌、新聞のような、文芸(ジャーナリズム)を手始めにしながらも、この他にも、音楽やビデオ映像(映画、テレビ番組など)がなだれ込んでくる。

この意味では、TabletはScreenでありInterfaceの物質化。

もう一つの軸は、RealtimeやSocialという特徴(というか切り口)で代表される、ボトムアップでephemeral(瞬時的)な媒介機能を提供する軸。

その媒介機能に、ARのような知覚方式の多様化が補強されていく。ARにおいては、今のところ、視覚強化のものの紹介が多いが、視覚以外の補強も行われていく。Geo(位置情報)との掛け算で、一分の一スケール、原寸大に想像的に展開可能な地図が普通になっていく、という具合に。

この意味では、Tabletは、Enhanced Communicationsのnavigator=水先案内人ということになる。

こう考えると、上のTechCrunchの記事で、Tabletの説明として記された、

the incarnation of the Web in device form
=デバイスというフォルムをとった、ウェブの(神に類した)顕現、具象化

というのは、Tabletが存在として担うべき位置づけを上手く表していると思う。

Incarnation(神の顕現・受肉化)という言葉の選択から「大文字のウェブ(the Web)」自体が遍在する神(ユビキタスももともと宗教的な神の遍在を指す言葉)のような存在で、遍在するが故に掴み所がない神を一つの具体的な存在にして(つまりは偶像=アイコンにして)、手元に召還してみせる、ということ。

Tabletを手掛かりにして、ウェブという宇宙を想像できる、ということか。

*

だから、この先の2010年代は、ウェブの世界では、「想像力」こそが大事、ということにもつながる(そして、これは年末に読んだ『思想地図』Vol.4の主題でもあった)。

実際、「想像力」については、真面目に重要だと思っていて、というのも、上のTablet PCまでのイメージならば、多分、PC文化の第一世代、つまり、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズと同年代の人びとにとっては、30年来の夢がようやく叶う、という感じのものだから。

裏返すと、PC第一世代の夢は、ここで「打ち止め」になるという感じがする。

Appleでは、かつてNewtonという試みもあってわけで、それを思えば、今回のTabletは捲土重来の試みともとれる。その前例があるから、プレス関係者も取り上げやすいわけで。

以前にEric Schmidtについて書いたエントリーでも触れたが、Cloud ComputingがSUNの“Network is Computer”という考えの今日的具現化であることを考えると、TabletもCloud Computingも、いわば「既に起こった未来」のような既視感を覚えるわけで。

だから、Tabletの登場で始まる2010年代は、それが故に、PC/Web文化の到達点に達することを言祝ぐディケイドであることは間違いないのだが、その一方で、それは同時に、PC/Web文化の「60/70年代的想像力」の「遺産」を早晩使い尽くしてしまうことにつながるのではないか。そんな危惧を抱かないではいられない。

その意味でも、新たな「想像力」が必要になる。

PC/Web文化の聖地であるBay Areaでも第一世代の想像力が枯渇するという事態は、たとえば夏野剛によってコピーキャットばかりだといわれた日本のIT業界にとっては痛手になるのかもしれない。

だが、その一方で、この事態は世界で同時に起こるわけだから、逆にチャンスにもなるはず。

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PC文化第一世代の「原初的」想像力を備給したのが、Bay Areaのカウンタカルチャーの代名詞であったWhole Earth Catalog(WEC)であった、というのは、PC/Web文化に関心を持つ人たちにとっては常識。

その意味で、「60/70年代的想像力」。

私たち(この「私たち」は日本人だけでなくアメリカ人らも含む)は、だから、WECの時代にまで遡ってもう一度先達の想像力の源泉から物事を捉え直さなければならない。

Googleの最近の動き、たとえば、Smart Gridで「環境」分野にITをいわば「横展開」していこうとする動きや、Google Earthで「宇宙船地球号」を俯瞰しようという視線的欲望や、あるいは、Google Bookによる「知の総覧」づくりも、WECの想像力にまで遡って解釈していく必要がある。

そして、そこからGoogleとは異なる「未来分岐の可能性」を探ることが大切になる。

あるいは、Silicon ValleyのVenture Capitalの向かう先が、代替エネルギーやバイオ、ナノ、といった世界に向かっていることを、WECの記した「60/70年代的想像力」の文脈でもう一度捉え直して、それら文脈を脱臼させてみる試み。

ここまで考えてくると、たとえば、『思想地図』Vol.4で中川大地が寄せた、大正生命主義に遡っての「環境エミュレーション原則」に関する論考(そして、彼による中沢新一の紹介)や、あるいは、千葉雅也による「脳と地球(環境)」が21世紀の主題だという指摘が、極めてクリティカルかつアクチュアルな課題を指し示していることがわかる。

そして、この課題へのアプローチの一つは「計算一元主義」というのが、PC/Webが遍在化した現在を既に生きている(生きてきた)彼らの直観なのかもしれない。

中川の「環境エミュレーション原則」は明確にその計算一元主義を語っている。それに、千葉による「脳と地球(環境)」も、今日の物理学(物の理の学)で「量子」と「宇宙」という極小と極大が相互陥入してしまう状況を踏まえれば、「量子」と「宇宙」を、既に経験的事実としてあるが故に、有限な計算資源でさしあたってシミュレートできる写像として取り出したのが「脳」と「地球(環境)」であると捉えることもできると思う。

計算、という遂行によって、(物質とエネルギーに続く第三の要素である)「情報」を現実の世界に陥入させていくような想像力。

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さしあたって、こうした想像力を具体化して過程では、“Social”という言葉を、物質主義的=唯物論的に捉えていくことが大事なのかもしれない。

SNSが始まった頃から、この“Social”という言葉が今ひとつ納得できない言葉としてあったのだけど(カタカナで「ソーシャル」とされても何も説明してないブラックボックスの言葉にすぎない)、TwitterやFacebookの使われ方、あるいは、Social Graphという表現から最近考えてきているのは、結局、機能的に言うと、

Social = Web上のインタラクションやコミュニケーションの随意な編成によって実現される、一定の期間にわたるユーザーの群体化

これくらい唯物論的にこの言葉は捉えておかないと、容易に、仲間内とか同好会、という既存の「社会集団概念」に取り込まれてしまって、Socialが持っている可能性を著しく損ねてしまうように思う。

それに、今回の想像力への挑戦が、Bay Areaを含む、世界同時多発であることを踏まえれば、それこそ、文化理解や人類学的な視点まで含めて、“Social”という言葉が本来持つ多様な集団/群体の可能性を踏まえておく必要がある。そうして、事前に、“Social”にまつわるパラメータを可能な限り多く、可能な限り幅広く設定しておく必要がある。あるいは、事後的に修正可能なscalabilityを担保できるようなスペックを志向しておく。

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もう一つ付言しておきたいのは、WECの現実社会への関わり=実践、ということ。

WECの中核メンバーであるStewart Brand、あるいは、彼のサークルにいた(未来学の大物であった)Herman Khanらは、一時期、カリフォルニアの州政治に深く関わった時があった。Stewart Brandは、Jerry Brownがカリフォルニア州知事(1975-83)の時にBrownのアドバイザーを務めたからだ。

アメリカ連邦政府だけを見ているとWECの政治的影響力は限定的、というか、ほとんどないように見えるかもしれないが、お膝元であるカリフォルニアでは、WECの想像力は、実際の政治=社会運営にも影響を与えるほどの存在であった。

カリフォルニア州の州都であるSarcamentoはカリフォルニア州北部にあり、Bay Areaにも近い。日本ではカリフォルニアというと南部のLAのイメージが第一に上がると思うが、州政治という点では、地理的隣接性から北部のSan Franciscoの影響力を無視できない。

そして、カリフォルニアはアメリカ最大の州であるため、カリフォルニアの政治の舵取りは、アメリカ全体にも大きな影響を与える。Paul Starobinの“After America”では、「アメリカ以後の世界」のひな形としてカリフォルニアを挙げているぐらい(Starobinの本は、最近、『アメリカ帝国の衰亡』として邦訳が出た)。最近であれば、環境に関する独自のイニシアチブが目立つが、それらの動きの底流にも、WECの「60/70年代的想像力」が一役買っているわけだ。

で、このカリフォルニアの例で何を言いたいかというと、

「想像力」は「社会的構想力」に結びつく、

という事実と、しかし、

「社会的構想力」も真空地帯から生まれるわけではなく、何らかの案件に端を発した「想像力」を拡大/拡張させていく過程で結実してくる、

という事実。

だから、私たちが、Tabletをきっかけに始まる「60/70年代的想像力」の枯渇をきっかけに膨らませた「想像力」も、どこかのタイミングで「社会的構想力」に転じ、現実世界との接点を持ちうる、ということ。

その意味で、2010年から始まるディケイドでは、「想像力」こそが要になる。

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それにしても、Tablet≒Tableauとは。
フーコー的な読み込みや展開はきっとウェブのどこかで誰かがしてくれ(てい)るのだろう。

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2010年1月27日(アメリカ時間)に件のAppleのTabletは、“iPad”として公表された。