『思想地図』Vol.4に続き、積ん読の解消として、12月上旬に買ったままだった田中辰雄『モジュール化の終焉』を読む。
感想としては拍子抜け。
タイトルの物々しさに比して、語られていることは、極めて限定的。それは、田中自身、最後の章で想定される反論として予め指摘している。
そうした著者自身の自覚も踏まえるならば、「モジュール化の終焉」というタイトルや「統合への回帰」という副題を、情報通信「産業」全般について語るにはやはり事例が限定的。ここは、せめて、情報通信「商品」について、というのが妥当なように思う。
で、情報通信商品は、(マーケティングや生産管理でよく引用される)プロダクト・ライフサイクル(商品寿命)の点で、成熟に向かっていくから、市場=利用者=消費者からのフィードバックの中で、商品機能が淘汰・洗練され、その過程で「統合化」が進む。
そして、それはそうだろう、と思う。
いわゆる、ドミナント・デザイン、の議論で、商品については語れてしまう。
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ここで了解すれば、これでこのエントリーも終わりなのだが、どうも腑に落ちないところがある。
それは、そもそも、この本、というか、このタイトルを手にしたときにイメージしていた「モジュール化」と、この本で扱われていたことが、どうもすれ違っているように思えるから。
その意味で、拍子抜けだし、肩すかし、ということになる。
だから、この印象は、田中に責があるというのではなく、端的に私の側で「思っていたものと違う」というもの。
通販商品だったら、クーリングオフしたい感じ、といえば私が抱いた違和感を伝えることができるだろうか。
多分、私は、「モジュール化」というのを「目標概念」、「理想概念」、あるいは、「モジュール化を目指せ」という命題によって達成される「効果」の部分について関心を持っていたのだと思う。
(対して、上の本の記述は、端的に言って、モジュール化された部品体系とそれに基づく組み立て体系、という、「記述」概念として使っている)。
もっといえば、「モジュール化」という表現よりも、英語の“Modularity”の表現の方を想定していた。
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若干、細かい話になるが、この“Modularity”というのは、MITとハーバードの、それぞれのビジネススクールで教鞭をとっていた、BaldwinとClarkが“Design Rule”という本で提示した概念。
二人は、基本的には90年代初頭のパソコンの興隆(と大型コンピュータの後退)に範をとりながら、いわゆるWin-telのような、つまり、基幹部品(OSとCPU)での技術革新を促すような、構造分離された(そして、そのためのインターフェースを伴った)部材に分ける=モジュール化することで、技術革新が同時多発的に生じることをよしとする産業体制を作ることができると説いた。
そのコア概念として“Modularity”という表現が使われた。
気をつけるべきは、Baldwin-Clarkの考えは、彼らの著作名が“Design Rule”であることからも明白なように、“Modularity”という表現を「設計思想」として、つまり、一種の「規範概念」「当為概念」として提示していた、ということだ。
つまり、パソコン産業の興隆から(商品としてのパソコンではないことに注意を促しておく)、その成功のルールを、一種の法則として抽出し、その「事実概念」を、設計「思想」という形で、「当為概念」として他の産業にも当てはめてみよう、というのが、Baldwin-Clarkの「提案」だったはず。
だから、“Modularity”というのは検証すべき対象、つまり、真偽を検証する対象ではなくて、単純に、「選択するかどうかを考える対象」だということだと思う。
そう考えると、少なくとも、Baldwin-Clarkの考える“Modularity”という概念は、「終焉」というような「自然死」を迎えるような概念ではない。
なぜなら、それは、想定される目的に合わせて選択されるべき「設計思想」だから。
あわせて、副題の「統合への回帰」も適切な表現とはいえなくなる。
この「統合」という概念は、どうやら、村上泰亮や藤本隆宏の考えからの引用のようだ。村上からは「統合化」の概念として、藤本からは自動車産業における実例として、つまり、「理論」と「事実」の両面から参照点として「統合」概念が提示されている。
(ちょっとうろ覚えだが、村上は『反古典の政治経済学』の中で、「開発主義」的な「産業の調和」的達成をよしとしていたように思うし、藤本は『能力構築競争』で自動車産業の、微細な部品調達構造を含めた、「統合」的事業運営を、記述していたと思う)。
だから、多分、適切な表現は、
「モジュール化と統合化の二つの設計思想のうち、どちらを選択するか」
ということ。
これは、
村上による「統合化」概念も、国際的な経済体制の中で日本の産業≒製造業がどう対応すべきか、という発想から出ていたことだった(はずの)ことや、
Baldwin-Clarkの“Modularity”概念も、日本を含む東アジアの製造業の興隆に対してどう対処すべきか、という対応の中から出てきた発想だったこと、
というように、両概念の発端にもどれば、むしろ自然なことのように思う。
なぜなら、「統合化」にせよ、“Modularity”にせよ、あるゴールに対するアプローチとして提出された考え方、つまり、設計思想に関わるものであったはずだから。
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さて、タイトルに記した、『思想地図』の人たちはこの『モジュール化の終焉』をどう考えるのか、というのは、単純に、私がこの数日、『思想地図』を読んでいたからでもあるのだが(笑)、
とはいえ、彼らの説く「アーキテクチャ」などの考えと、「モジュール化の終焉」とが無縁ではないように思えたから。
無縁でないと思っている点は、二つあって、
一つは、「モジュール化の終焉」が、反アーキテクチャ思想、にも見えて、その言説効果(と実体的な効果)に対して、どう彼らが考えるかに興味があるから。
濱野智史の「アーキテクチャの生態系」概念や、藤村龍至の「批判的工学主義」概念からすると、「モジュール化の終焉=自然死」という言明は、あまり芳しいものとはいえないように思う。
ちょっと気になって「モジュール化の終焉」という言葉でググってみると、「やっぱりそうか、これからは統合化か」という感想を記したブログも既に散見されるため、「モジュール化の終焉」という言葉自体が、ある層の人びとにとっては「飛びつきたい表現」になっているようにもみえる。
冷静に考えれば、「統合か、モジュールか」という「二択問題」に帰すること自体、考え直さなければいけないようにも思うが、たとえば、日本の家電産業の不調とサムソンの好調を並べられると、統合化産業=巨大独占事業体、の方がよく見える風潮があるのも確か。
「統合か、モジュールか」という二分法に陥らないためにも、もう少し、その間を埋めるような、その間の解像度を上げるような言葉の開発が必要に思っていて、それが、前述の濱野や藤村の、アーキテクチャ志向、あえていえば、ジットレインの「生成性」に連なるような発想からの分節化が有効であるように思えるからでもある。
そもそも、統合化もmodularityも設計思想なわけだし。
というか、なによりも、アーキテクチャは権力である、というレッシグの視点がすっぽり抜け落ちてしまうのは、今後の情報通信産業・事業の議論をする上では問題があるように思うので。
さしあたって、
生成性(generativity)=環境に内在する創造性の促進ポテンシャル
と考えれば、多分、
モジュラリティ=生成性を担保する環境特性
であって、つまり、
モジュールというのは、
個々の部品=オブジェクトレベルのことではなくて、
生成性を高めるための方策としてあるもの。
生成性にならって「環境」を意識した表現にすれば、モジュラリティは、
「全体としての環境」に対する「着脱性」
とでも言う方が適切だと思う。
(そして、モジュラリティによる生成物が経済的価値=交換価値をもつかどうか、はさしあたって別問題、ということになる。その意味でも、設計概念、だと思う)。
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もう一つは、上に書いたような、「モジュール化」を巡って見られるような、「事実概念」と「当為概念」が混同されるような事態がどうして生じるのか。そうした、一種の「翻訳/誤訳の問題」について考えられないか、ということ。
単純に、経済学は、実証性と規範性を切り離しているから、というのでは済まないように思っているからでもある。
というのも、政策というのは、単なる計画=業務手続きではなくて、常に未来に対する「遂行的実現」の要素を含むからで、大なり小なり「当為」と関わるから。
留学時の経験でいえば、アメリカの場合、ビジネススクールや公共政策大学院のようなプロフェッショナルスクール(専門大学院)の教員は、同時にアカデミックデパートメント(学術大学院)にも所属していて、いわば、実務≒応用開発と理論彫啄の二足のわらじを履いている。
そうすることで、一種の「臨床性」を確保して、理論と実証の間を往復しているので、事実概念の当為概念的適用には、一種の直観によって現実的に妥当な目標設定をすることが習い性になっていたように記憶している。
たしか、イノベーション経営学の権威であるChristensenが自分の学説の真理性は、プラトン的なものではなく、カルナップやクワインのような論理実証主義的な真理性に基づいていると書いていた(今確認したが、“Innovator’s Solution”の第一章の注18。原書だと27頁)。
カルナップやクワインというのは、Christensenがハーバードにいるから引用しているのに過ぎないのかもしれないが、言わんとしていることは、彼が、一種のプラグマティズムに連なる、実用性の真理観を採用している、ということ。
もとの文脈に戻れば、経営学では工学的な「操作概念」として、学説を出してきていること。プラグマティズムだから、当然、状況に対する適合性や、想定する目標への整合性などが「有用性」の判断基準として採用される(ようだ)ということ。
このあいだ書いた『思想地図2.0』に対するエントリーで参照した“New Yorker”であれば、明示的に何かの学説を検証するような記事はないが、たとえば、Malcolm Gladwellの科学的読み物、などは、間接的に、こうした「科学と現実の往復」を遂行的に示している、ともいえる。
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なんだか、とりとめのないエントリーになってきた(苦笑)。
「モジュール化の終焉」という表現に感じる違和感の所在を突き詰めようとしたばかりに、随分粘着質な書き方になってしまった。
念のため記しておくと、このエントリーは、田中の著作をきっかけにして“Modularity”についてあれこれ考えてみたことを記したもので、田中の議論を反論したりするものではない(それは、冒頭書いた「クーリングオフしたい」という感覚で表現したもの。少なくとも、Modularityについて考えるきっかけを与えてくれたという点で、田中の著作には感謝している)。
そして、このmodularityを巡る議論は、『思想地図』を中心に広まりつつある、アーキテクチャーや生成環境を主軸に据えた議論と接点をもって語った方が、「設計思想」という点で明確になるような気がする、ということ。
そういえば、『思想地図2.0』のエントリーで触れたWIRED.UKであれば、たとえば、IDEOのDesign Thinkingの紹介として、ロンドンの都市問題の解決などを挙げていた。こういう、アーキテクチャー=デザイン的視点、つまり、対象を操作可能なものとして認識する方法に伴う「操作感」は、それこそ、ウェブやゲームや、今ならiPhoneなどの、利用経験の程度によって、多分、直感的な理解に差が生じるのだろう。
だから、アーキテクチャの視点は、藤村の建築への応用にとどまらず、もっと大胆に、ソフトウェア的発想の全域化、ということで語っていってもいいのかもしれない(それがアーキテクチャ派、ってことかもしれないけど)。
もっとも、「統合とモジュール」は、「積分と微分」とでも捉えれば(統合はインテグレーションだから)、この両者の間の往復こそがなにか本質的なことなのかもしれない。
ただ、その場合、現実世界を考えると、どうしても、どのタイミングでか、という問題は生じる。
あるタイミングで上手く成立しているもの(いわば共時的なもの)と、その上手く成立しているものが崩落or進化してくこと(いわば通時的なもの)とのバランスを取るのが、生成性やアーキテクチャが「設計」概念を通じて扱うことなのかもしれない。
書いている本人も、まだ上手くいえていないのを承知の上で、こうした話題をこれから『思想地図』に集まる人たちがどう考えていくのか、興味がある。
もちろん、私も、もう少し考えてみるつもり。